テーマ:東京

代々木

明治神宮参道に立つ「代々木」の地名の由来となったとされている樹木。江戸時代に彦根藩井伊家下屋敷であった当地には代々樅の巨木があり「代々大きな木があった」という意味で「代々木」の地名が発祥したそうです。なお当時の木は、昭和20年5月の空襲の際、撃墜されたB-29が直撃して焼失したそうです。
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明治神宮

東京都渋谷区に鎮座し明治天皇と昭憲皇太后をご祭神とする神社。境内には多くの樹木が育ち、神宮の森とも呼ばれ、都心部の貴重な緑地として親しまれています。また、初詣では例年日本一の参拝者数を誇っています。
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江戸の殉教者顕彰碑

江戸時代に東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)から 品川に至る小高い地で50名の切支丹信者が火刑に処せられたのをはじめ、江戸全体では2千名近くの信者が殉教したとのこと。この江戸の大殉教者約2千人の信者を称えて、カトリック高輪教会の敷地内に顕彰碑がたてられています。
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大石良雄外十六人忠烈の跡

吉良邸討ち入り後、大石内蔵助他計17名は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷が預けられ、元禄16年(1703年)2月4日、同屋敷で切腹しました。港区の都営高輪アパート内に切腹の跡とされる場所が残されています。
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大石良雄等自刃ノ跡

吉良邸討ち入りに成功した赤穂義士46名は4つの大名家に分けてお預けとなり、大石良雄は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられました。元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされました。
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大石内蔵助墓

大石良雄、通称大石内蔵助は播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老。元禄15年(1702年)12月15日未明、赤穂浪士を率いて吉良邸討ち入りを果たし、翌年2月4日、細川邸で切腹、主君と同じ高輪の泉岳寺に葬られました。
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浅野内匠頭長矩墓

浅野内匠頭長矩は播州赤穂藩藩主。元禄14年(1701年)3月14日、 殿中松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかり即日切腹。ここから赤穂義士の物語が始まりました。浅野内匠頭の墓は浅野家と所縁のあった東京芝高輪の泉岳寺にあります。
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首洗いの井戸(泉岳寺)

元禄15年(1702年)12月14日、赤穂47士は本所松坂町の吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。そして、赤穂47士は吉良上野介の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えましたが、その時に、この井戸で吉良上野介の首を洗ったと伝わっています。    
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泉岳寺

東京都港区高輪にある曹洞宗のお寺で、赤穂義士の墓所として有名。江戸時代初期には外桜田にありましたが、火災で焼失。高輪への移転の際、助力した大名の一つに浅野家があったとのことです。    
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天海僧正髪塚

  天海僧正は、江戸時代初期に徳川家康の側近として活躍した天台宗の僧。 家光の代に、江戸城の鬼門にあたる忍岡に寛永寺を創建したのも天海僧正。 天海僧正は、実は明智光秀であったという興味深い異説もあります。  
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北町奉行所跡

東京駅の近く、丸の内トラストタワー脇の植え込みの中に説明版があります。「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保11年 (1840年)3月から3年の間、北町奉行の職にありました。
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江戸城 大手門

元和6年(1620年)に、伊達正宗等の外様大名の普請で完成したと伝わる旧江戸城の正門で、江戸時代には、この門から300諸侯が登城したそうです。 現在は、皇居東御苑の出入り口として一般に公開されています。
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富士見櫓

明暦3年(1657年)の大火で江戸城の天守閣が焼失した後、天守閣の代用とされていたのが、この三重構造の富士見櫓。万治2年 (1659年)に再建されたもので、江戸城本丸の貴重な遺構です。
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巽櫓(桜田二重櫓)

江戸城の本丸から見て東南(辰巳)の濠(桔梗濠)の角にあることから 巽櫓と名付けられたそうで、桜田二重櫓とも呼ばれています。富士見櫓・ 伏見櫓とともに、現在の江戸城に残る3つの櫓の中の一つです。
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和田倉門跡

和田倉門は元和6年(1620年)に構築され「蔵の御門」とも呼ばれていた士衆通行の橋。明治元年(1868年)の明治天皇の初めてのご東幸の際には、 呉服橋門から和田倉門を通って江戸城西ノ丸に入られたとのことです。
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楠正成像

東京の皇居前広場にある楠正成(大楠公)の像。楠正成は後醍醐天皇に忠誠を尽くして戦った南北朝時代に活躍した武将。この像は、住友財閥が 出資し、東京美術学校が制作したそうです。
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伏見櫓

皇居の正面鉄橋の傍にある櫓で、別名「月見櫓」とも呼ばれているそうです。 江戸城築城の第2期(3代将軍家光の時)の寛永5年(1628年)に、京都の 伏見城から移築したものと伝えられ、皇居で最も美しい櫓と言われています。
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正門石橋(皇居)

皇居の入り口に架かる橋で二重橋と誤認されている橋ですが、この石橋は二重橋ではなく、正門鉄橋が本来の二重橋とのことです。皇居に入るのには、皇居前広場→ 正門石橋→正門→正門鉄橋→宮殿、が正式ルートだそうです。
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将門塚

東京都千代田区大手町にある平将門の首を祀っている塚。伝承では、将門の首級は平安京まで送られて都大路で晒されましたが、3日目に故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされています。ここはその中の一つです。
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酒井家上屋敷跡

皇居(江戸城)大手濠の近くにある将門塚と同じ敷地に案内板があります。 江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭があった処で、 伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐が殺害されたところだそうです。
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北町奉行所跡

東京駅八重洲中央口大丸東京店前の歩道に立つ北町奉行所跡の説明版。 現在、東京駅のある辺りは江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、 文化3年(1806年)から幕末まで北町奉行所が置かれていたところです。
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デ・リーフデ号

デ・リーフデ号は、慶長5年(1600年)3月16日に、現在の大分県に漂着した約300トンのオランダの商船。生存者の中には、後に江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムス(三浦按針)も含まれていました。
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ヤン・ヨーステン像

東京駅八重洲地下街の外堀地下1番通りにあるヤン・ヨーステンの像。江戸時代の初期に、現在の八重洲のあたりにヤン・ヨーステンの屋敷があり、「八重洲」の地名は、ヤン・ヨーステン が「やよす」と呼ばれるようになり、さらに「八重洲」になったとされています。
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同心番所(江戸城)

同心とは、江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭などの配下に属し、与力の下にあって、庶務・警備の仕事をしていた下級役人を総称したも の。江戸城の同心番所には大手三の門を警固する与力・同心が詰めていました。
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中之門跡(江戸城)

江戸城の中之門は、本丸の玄関となる中雀門と一体となって一つの大きな虎口を作り、 百人番所や大番所とともに本丸護衛として重要な役割を果たしていました。 中之門石垣は江戸城の中でも最大級の巨石(35t前後)が使用されています。
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百人番所

江戸城の大手門から大手三の門を抜けたところの左手にあるのが、大手三 の門を守衛し本丸御殿最大の検問所であった長さ50mを超える百人番所。 同心が常時百人詰めていたので百人番所と呼ばれるようになったそうです。
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大番所

番所とは警備の詰所のことで、大番所は大手中之門の内側に設けられ、他 の番所よりも位の高い与力・同心により警備されていたといわれています。 本丸への最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要だったそうです。
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松の大廊下跡

元禄14年(1701年)3月14日、勅使の接待役(勅使饗応役)であった浅野内匠頭がここで吉良上野介に 斬りかかり、あの有名な忠臣蔵の物語が始まりました。皇居東御苑内に碑がたてられています。
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平川門

江戸城の当時の高麗門、渡櫓門、木橋がそのまま残っている門。当時は江戸城三の丸の正門で、徳川御三卿の田安・一橋・清水の各徳川家の登城口であり、また、奥女中の通用門として「お局御門」とも云われていたそうです。
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