白旗神社

藤沢市に鎮座する神社で、ご祭神は寒川比古命と源義経。腰越で首実検され捨てられた義経の首がこの近くに流れ着き、ここに合祀されたと伝わっています。ここから南に約300mのところには、伝源義経首洗井があります。
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中和田小学校南部分教場跡

明治25年(1892年)1月に、ここに中和田学校の南部分教場が置かれ、大正5年頃には、2教室複式学級で、尋常小学校1年生から4年生まで122名の子どもが学んでいたそうです。昭和43年(1968年)に中和田南小学校として独立するまで、南分校(南部学校)として、親しまれてきたそうです。
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万治の石仏

諏訪大社下社春宮から程近い処にある、万治3年(1660年)に造られ、現在は下諏訪町の指定有形文化財に指定されてる石仏。下社春宮に石の大鳥居を立てるよう命じられた石工が、この大石を材料にしようと鑿を入れたところ、その晩の夢枕で良い石材のある場所を教えられたという伝説があるそうです。
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霞ヶ城(手塚城)跡

諏訪大社下社秋宮のすぐ近くにある城の跡。手塚別当金刺光盛の居城だった処で、金刺光盛は源義仲の挙兵に従い、寿永2年(1183年)加賀の篠原の戦いで、敗走する平家軍の中でただ一人踏みとどまって奮戦する斎藤実盛と壮絶な一騎打ちを行い、その首を討ち取ったことが「平家物語」に記されています。
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金刺盛澄像

霞ヶ城の城主、手塚別当金刺光盛の兄。金刺盛澄は、治承・寿永の乱で源義仲の挙兵に従いましたが、義仲が討伐された後、源頼朝によって捕縛され処刑されようとしました。しかし、藤原秀郷流弓術を継承する名手であった盛澄は、鶴岡八幡宮放生会で見事な流鏑馬を披露したため、赦免されたとのことです。
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与助尾根遺跡

長野県茅野市豊平の尖石遺跡の北側にある縄文時代中期の集落遺跡で、尖石・与助尾根遺跡として一括して扱われるとが多いそうです。こちらの与助尾根遺跡では、28か所の住居、石鏃10、打製石斧14、破片4、磨製石斧、石皿、凹石など多数を発掘されていて、複数の竪穴式住居が復元されています。
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尖石遺跡

長野県茅野市豊平にある縄文時代中期の集落遺跡。竪穴式住居跡33か所をはじめ、53か所の炉跡や列石、竪穴群、屋外埋甕などが発掘されていますが、土器に比べ石器の出土が極端に少ないそうです。また「尖石」の名称は遺跡の南側にある三角錐状の巨石の通称に由来するとのことです。
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尖石

長野県茅野市豊平にある縄文時代中期の集落遺跡である尖石遺跡の名称の由来となった岩で、古くから村人の信仰の対象となっていたそうです。この石の下には宝物が隠されているとの言い伝えが有り、ある時こっそりと村人が盗掘しようとしたところ、その夜の内に熱病で死んでしまった、という伝説もあるそうです。
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ほしのや道道標

横浜市泉区の県立松陽高校の前に立つ「ほしのや道」の道標。これは、坂東三十三観音八番札所、座間の「ほしのや観音」への道標とのこと。また「ほしのや道」は、宮沢の六道の辻・松陽高校前・新橋小学校前を経て、現在の県道瀬谷柏尾線につながっているそうです。
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感念井戸

巴御前は夫であった木曽義仲が敗れると和田義盛に引き取られ、さらに和田義盛も敗死し、巴御前は木曾へと落ち延びて行ったそうです。その途中、横根稲荷神社の境内にあった井戸の水で化粧をしたと伝わっています。
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上浜田6号墳

神奈川県海老名市にある古墳で、墳丘の一部が保存されています。発掘調査により周溝の一部が見つかり、一辺が22mの方墳であったと推定され、また、出土した壺型土器から4世紀に築造されたこの地域の豪族の墓と考えられているとのことです。
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瓢箪塚古墳

7基ある上浜田古墳群の中の一つで、全長が約75mあり、海老名市内でも最大の前方後円墳です。平成8年(1966年)に行われた発掘調査の結果、神奈川県内では最古級とみられる埴輪片が出土し、4世紀から5世紀初頭にかけてつくられた古墳であることが判明したそうです。
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上浜田中世建築遺構群

この建築遺構群は、二段の造成面に掘立柱建物跡8棟・竪穴状遺構1基、溝状遺構6本・井戸1基・柵列5本・土杭等から成っていて、建物配置、出土品から、鎌倉時代から室町時代にかけての武士階級の住居であったと考えられているとのことです。現在は、浜田家歴史公園として整備されています。
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早川城跡(城山公園)

早川城は現在の神奈川県綾瀬市を流れる相模川の支流目久尻川左岸の舌状台地南端部にあった城。鎌倉時代の御家人・渋谷重国の築城と伝わっていますが、史料に乏しく実態は不明とのこと。現在は「城山公園」として整備されており、平成20年(2008年)には、神奈川県指定史跡となりました。
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東郷氏発祥の地碑

東郷氏の祖は相模国渋谷荘を領し渋谷氏を名乗った一族とのこと。早川城を拠点としていた渋谷重国の次男が薩摩国へ下向、与えられた東郷別府の地名を称したのが薩摩東郷氏の始まりだそうです。早川城跡の物見塚跡には、東郷平八郎が昭和7年(1932年)に建てた「東郷氏祖先発祥之地」の石碑があります。
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水道みち

この水道みちは、津久井郡三井村(現相模原市緑区三井)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)までの約44kmを、明治20年(1887年)に我国最初の近代水道として創設されたものです。運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを用いて水道管を施設したそうです。
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本興寺(横浜)

横浜市泉区にある日蓮宗の本山。この地は鎌倉街道上ノ道が通り、身延山に隠棲した日蓮が湯治のため常陸国に向かう途中に通過し、また、没後の遺骨も通過した地であったとのこと。不受不施派の30世日顕が万治3年(1660年)、日蓮ゆかりの当地に寺基を移し、法灯を伝えることとなったとのことです。 >
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薬王院(大和)

この薬王院の本尊は薬師如来座像。鎌倉時代の武将・和田義盛が眼病治癒を薬師如来に祈ったところ全快したので、一堂を建て薬師如来をまつったと伝わっていて、薬師如来は眼病に霊験があると云われています。
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おびん水

建久4年(1193年)、源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行った際、ここに立ちより鏡のような水面に顔を映し、鬢のほつれをなでつけたと言い伝えられているそうです。また、富士講の霊場の一つになっているとのことです。
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食行身禄の碑

江戸時代中期に江戸市中を中心に富士講が組織されてきましたが、その発展に際して中心となったのが、富士講の指導者であった宗教家の食行身禄。本名は伊藤伊兵衛で、食行身禄は行名(富士講修行者としての名前)。白糸の滝の傍らに碑が建てられていますが、この碑は天保3年(1832年)に食行身禄の百回忌供養に建てられたとされています。 …
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音止めの滝

静岡県富士宮市にある滝で、近くの白糸の滝と共に日本の滝百選の一つ。富士の巻狩りの際に曾我兄弟が仇討ちの密議をしていましたが滝の轟音で話ができず、神に念じたところ、滝の音が止んだという伝説が名称の由来とのことです。
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蔵造りの町並み

埼玉県川越市の中心部には「蔵造りの町並み」が今も残されています。 蔵造りは類焼を防ぐために江戸の町家形式として発達した巧妙な耐火建築ですが、今の東京では見ることのできない江戸の面影を川越にとどめています。
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時の鐘

川越の蔵造りの街並みを代表する市のシンボルとなっている鐘楼(時計台)。古くは鐘撞き守が決まった時間に時を知らせていましたが、現在では機械式で 1日に4回、川越城下に時を知らせているそうです。
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埼玉県名発祥の地碑

埼玉という県名は、当初の県の管理区域の中で最も広いのが埼玉郡であったためとのこと。また、前玉(さきたま)が転じて埼玉(さきたま)へと漢字が変化したものだそうです。埼玉県行田市にある「さきたま古墳公園」の一角に石碑が建てられています。
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芭蕉句碑(鹿島神宮)

鹿島神宮境内の要石の直ぐ近くに建てられている松尾芭蕉の句碑。    枯れ枝に 鴉のとまりけり 穐の暮この句はこの地で詠まれた句でありませんが、状況が似ているのでここに建てられたと推察されているそうです。
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親鸞聖人旧跡

鹿島神宮境内の鹿園周辺は、鹿島山金蓮院神宮寺があった処だったそうで、親鸞聖人の旧跡碑がたてられています。親鸞聖人は「教行信証」を著す為、一切経その他の文献閲の為、しばしば鹿島神宮を訪れたと伝えられます。
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箱根神社

箱根の芦ノ湖畔にある神社で、湖の中にある朱塗りの鳥居が有名です。ご祭神は、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメ、ヒコホホデノミコトの三神。古くから、交通安全・心願成就・開運厄除の神様として信仰されています。
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曽我神社(箱根)

箱根神社境内、手水舎から長い石段をご本殿に向かう途中の左手に鎮座する神社で、ご祭神は曽我兄弟。鎌倉時代、箱根権現の稚児であった曽我五郎時致と、兄十朗祐成の霊を慰めるため「勝名荒神祠」としてお祀りされたのが始まりとのことです。
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保渡田古墳群

群馬県高崎市保渡田町・井出町にある古墳群で、昭和60年(1985年)9月3日に国の史跡に指定されました。3基の大型前方後円墳が残されていて、築造年代は5世紀代の後半も終わりに近い頃から6世紀前半代にかけてであり、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の順に造営されたと推定されているそうです。
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佐婆神社

佐婆神社は中之宮左馬神社、下和泉鯖神社と同じようにサバ神社の一社。御祭神は左馬頭源満仲のほか木花咲耶姫命が祭神。勧請年代は不詳ですが、江戸時代初期の慶長年中(1596年~1615年)、 或いは寛文年中(1661年~1673年)などの説があるそうです。
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飯田神社

横浜市泉区上飯田町に鎮座し、ご祭神を左馬頭源義朝とするサバ神社の一社。創建年代は不詳ですが、飯田五郎家義(12世紀後半)が創建したとも飯田三郎能信が延応元年(1293年)奉幣したとも伝えられています。
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七ツ木神社

藤沢市高倉に鎮座し、ご祭神を源義朝とする神社。境川・引地川・和泉川流域に点在する「サバ神社」12社中の1社であり、以前は鯖明神社と称していましたが、明治初年に七ツ木神社と改名されたとのことです。文禄年間(1592年~1596年)に、定かではありませんが渋谷義重による創建とのことです。
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鯖神社

神奈川県中部の境川中流域、横浜市泉区・瀬谷区、藤沢市北部、大和市南部にかけて12社ある「サバ」と読む社名を持つ神社の中の1社。藤沢市湘南台7丁目に鎮座し、ご祭神は源義朝公。創建は元禄15年(1702年)、当地住人井上瀬兵衛によるものとのことです。
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徳川家康廟所(久能山)

元和2年(1616年)4月17日に亡くなった家康の遺体は、その日のうちに久能山に移されました。廟所は当初は小さな祠でしたが、三代将軍・家光の時に高さ5・5mの石塔が建てられたそうです。石塔は遺命に従い西を向いています。また、家康の遺体が久能山にあるのか、日光にあるのかは不明だそうです。
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家康公御手形

徳川家康公の廟所であった静岡県静岡市の久能山東照宮の桜門の内側に「家康公御手形」が置かれています。徳川家康が38歳の時のものだそうで、推定身長は155cm~159cm程度とのことです。
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羽衣の松

天女が舞い降りて羽衣をかけたとの伝説で有名な三保の松原にある松。初代「羽衣の松」は宝永大噴火の際に海に沈んだと伝えられ、樹齢600年の2代目「羽衣の松」は立ち枯れが進んだため、現在の「羽衣の松」は平成22年(2010年)10月に、近くにある別の松を3代目として認定したものだそうです。
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日本武尊像

日本武尊は東征の途中、甲斐の国酒折宮より雁坂峠を越えて三峰山に登りました。そして、遥かに国中の地理を見渡し神威の擁護を願い、仮宮を造営してイザナギノ尊、イザナミノ尊を祀ったことが、三峰神社の始まりだそうです。
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酒湧の池

横浜市泉区和泉町の第六天神社の傍にある小さな池。孝行息子がこの池の水を汲むと酒になり、一儲けしようとした村人が汲むと、ただの水になってしまったという昔話が伝わっている池です。
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扇塚と芭蕉句碑

浅草寺近くの弁天堂の下に、扇塚と芭蕉句碑が並んで建てられています。扇塚は日本舞踊で使用し古くなり、使えなくなった扇子に感謝し供養する処。また「くわんをんの いらか見やりつ 花の雲」の句が刻まれた芭蕉句碑は、元は浅草寺本堂の北西の銭塚不動の近くにありましたが戦後この地に移建されたそうです。
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紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡

紀伊和歌山藩徳川家は徳川御三家の一つで、初代藩主は徳川家康の10男頼宣。8代将軍吉宗、14代将軍家重が紀伊徳川家から出ています。その紀州徳川家の上屋敷跡が、現在では複合商業施設である東京ガーデンテラス紀尾井町になっています。
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玉川上水の石枡

東京都千代田区の清水谷公園内に展示されている玉川上水の石枡。この石桝は昭和45年(1970年)に麹町3丁目で出土した玉川上水幹線(本管)の一部。玉川上水は承応2年(1653年)に着工、翌3年6月に完成した水道で、多摩川の水を羽村から取水し、四谷大木戸まで通す43kmにも及ぶものでした。
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贈右大臣大久保利通公哀悼碑

大久保利通は明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称された政治家。 明治11年(1878年)5月14日、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町)で暗殺されました。享年47歳。暗殺現場近くの清水谷公園に哀悼碑があります。
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日枝神社

東京都千代田区永田町にある神社。太田道灌が江戸城築城にあたり川越日枝神社を勧請したのに始まりで、徳川家康が江戸に移封された際に城内の紅葉山に遷座して江戸城の鎮守としたそうです。 その後、明暦の大火で社殿焼失のため、万治2年(1659年)、江戸城の裏鬼門にあたるこの地に遷座したとのことです。
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代々木

明治神宮参道に立つ「代々木」の地名の由来となったとされている樹木。江戸時代に彦根藩井伊家下屋敷であった当地には代々樅の巨木があり「代々大きな木があった」という意味で「代々木」の地名が発祥したそうです。なお当時の木は、昭和20年5月の空襲の際、撃墜されたB-29が直撃して焼失したそうです。
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明治神宮

東京都渋谷区に鎮座し明治天皇と昭憲皇太后をご祭神とする神社。境内には多くの樹木が育ち、神宮の森とも呼ばれ、都心部の貴重な緑地として親しまれています。また、初詣では例年日本一の参拝者数を誇っています。
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柘榴坂

東京都港区高輪三丁目と四丁目の境界にある坂。江戸時代には北側が薩摩藩島津家下屋敷、南側が久留米藩有馬家下屋敷と両側を広大な屋敷に挟まれていました。また、もとはカギ形に折れ曲がる坂でしたが、明治時代に直進するように作り変えられ、石榴新坂とも呼ばれていたとのことです。
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江戸の殉教者顕彰碑

江戸時代に東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)から 品川に至る小高い地で50名の切支丹信者が火刑に処せられたのをはじめ、江戸全体では2千名近くの信者が殉教したとのこと。この江戸の大殉教者約2千人の信者を称えて、カトリック高輪教会の敷地内に顕彰碑がたてられています。
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