静岡県富士宮市にある滝で、近くの白糸の滝と共に日本の滝百選の一つ。富士の巻狩りの際に曾我兄弟が仇討ちの密議をしていましたが滝の轟音で話ができず、神に念じたところ、滝の音が止んだという伝説が名称の由来とのことです。
埼玉県川越市の中心部には「蔵造りの町並み」が今も残されています。 蔵造りは類焼を防ぐために江戸の町家形式として発達した巧妙な耐火建築ですが、今の東京では見ることのできない江戸の面影を川越にとどめています。
箱根の芦ノ湖畔にある神社で、湖の中にある朱塗りの鳥居が有名です。ご祭神は、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメ、ヒコホホデノミコトの三神。古くから、交通安全・心願成就・開運厄除の神様として信仰されています。
日本武尊は東征の途中、甲斐の国酒折宮より雁坂峠を越えて三峰山に登りました。そして、遥かに国中の地理を見渡し神威の擁護を願い、仮宮を造営してイザナギノ尊、イザナミノ尊を祀ったことが、三峰神社の始まりだそうです。
明治神宮参道に立つ「代々木」の地名の由来となったとされている樹木。江戸時代に彦根藩井伊家下屋敷であった当地には代々樅の巨木があり「代々大きな木があった」という意味で「代々木」の地名が発祥したそうです。なお当時の木は、昭和20年5月の空襲の際、撃墜されたB-29が直撃して焼失したそうです。
江戸時代に東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)から 品川に至る小高い地で50名の切支丹信者が火刑に処せられたのをはじめ、江戸全体では2千名近くの信者が殉教したとのこと。この江戸の大殉教者約2千人の信者を称えて、カトリック高輪教会の敷地内に顕彰碑がたてられています。
吉良邸討ち入りに成功した赤穂義士46名は4つの大名家に分けてお預けとなり、大石良雄は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられました。元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされました。
大石良雄、通称大石内蔵助は播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老。元禄15年(1702年)12月15日未明、赤穂浪士を率いて吉良邸討ち入りを果たし、翌年2月4日、細川邸で切腹、主君と同じ高輪の泉岳寺に葬られました。
浅野内匠頭長矩は播州赤穂藩藩主。元禄14年(1701年)3月14日、 殿中松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかり即日切腹。ここから赤穂義士の物語が始まりました。浅野内匠頭の墓は浅野家と所縁のあった東京芝高輪の泉岳寺にあります。
元禄15年(1702年)12月14日、赤穂47士は本所松坂町の吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。そして、赤穂47士は吉良上野介の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えましたが、その時に、この井戸で吉良上野介の首を洗ったと伝わっています。
鎌倉の源頼朝の墓から程近く、大江広元などの墓の下にある広場の部分。ここにはかつて、鎌倉幕府2代執権北条義時の墓があった法華堂跡とされているところで、1辺が8.4mの正方形の形をした「三間堂」があったそうです。
建仁3年(1203年)の比企の乱で、比企の娘の若狭局は井戸に投身自殺。その後、文応元年(1260年)、北条政村の娘が若狭局の霊に祟られたので、政村が若狭局を蛇苦止明神として、この蛇苦止堂に祀ったと伝わっています。
長勝寺、妙法寺と並び、日蓮が鎌倉で布教した際の拠点となった草庵の跡。境内には、日蓮が立正安国論を執筆した岩穴(法窟)というのがありますが、その法窟の側に、弟子の日朗が安国論窟寺を建てたのが始まりとのことです。
前九年の役が終息してから21年後の永保3年(1083年)、後三年の役が始まりました。奥州に向かう源義家が鎌倉に立ち寄り由比若宮に戦勝を祈願しましたが、その際、源義家が旗を立てたとされる松の幹が由比若宮の境内に残されています。
香川県高松市にある弘法大師により創建されたと伝わるお寺。源平合戦の際には負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれてきて、戦いが激しくなり寺に火がつくと、義経の身代わりとなり戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣のあった瓜生ヶ丘まで運ばれたと伝わっています。
屋島の戦いの際、勝ちに乗じた源義経は海中に打ち入って戦ううち、脇下にはさめていた弓を海中に落としてしまいました。その時、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ海中に落ちそうになりましたが、なんとか弓を拾い上げたと伝わる場所です。
横浜駅の東口、ヨコハマプラザホテルの前に小さな石碑がたてられています。 横浜米油が此処にガソリンスタンドを建てたのが日本最初のガソリンス タンドということで、昭和49年(1974年)9月19日に碑が建てられたそうです。
山汐丸は就役後は日本陸軍の指揮下で運用される予定であった護衛空母兼用仕様のタンカー。三菱重工業横浜船渠で竣工しましたが、その場所が 現在は横浜みなとみらいとなっていて、そこに錨が屋外展示されています。
その美しさは海の貴婦人とも呼ばれていた、かつての日本の航海大型練習帆船。現在は横浜の日本丸メモリアルパークに係留されていて内部は一般公開されています。また総帆展帆、満船飾などのイベントも年に数回行われています。
昭和3年(1928年)10月に完成した帝冠様式の建造物で、県内で最初の国登録有形文化財です。「キングの塔」の愛称を持ち、「クイーンの塔」、「ジャックの塔」とともに、横浜三塔の一つとして市民に親しまれています。
群馬県太田市のほぼ中央にそびえる金山に築かれた山城で「太田金山城」、「金山城」の別名があります。文明元年(1469年) 新田一族である岩松家純によって築城され、日本100名城、関東七名城の一つとされています。
高橋是清は明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った政治家。高橋是清邸は元々は現在の東京都港区赤坂にありましたが、主屋部分が東京都小金井市の江戸東京たてもの園に移築されて展示保存されています。2・26事件で高橋是清が暗殺された部屋も残されています。
高橋是清は第20代内閣総理大臣で、総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い政治家。二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ暗殺されました。享年83(満81歳没)
J・P・フォール大佐(1869~1924)は、大正8年(1919年)1月にフランス 航空教官団として来日。当時第1級の操縦士として知られていて、優秀なフラ ンス空軍士官だったそうです。所沢航空記念公園に像があります。
大正2年(1913年)3月28日、青山練兵場からの帰路、木村鈴四郎砲兵中尉 と徳田金一歩兵中尉の搭乗したブレリオ機は、午前11時59分、所沢飛行場を目前にして突風を受け左翼が折れて墜落、両中尉とも即死でした。
明治44年(1911年)4月5日に徳川好敏大尉が操縦するフランス製複葉機 アンリ・ファルマン機が高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒 の飛行を行なった日本初の航空機専用飛行場の跡にできた県営公園です。