感念井戸

巴御前は夫であった木曽義仲が敗れると和田義盛に引き取られ、さらに和田義盛も敗死し、巴御前は木曾へと落ち延びて行ったそうです。その途中、横根稲荷神社の境内にあった井戸の水で化粧をしたと伝わっています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

音止めの滝

静岡県富士宮市にある滝で、近くの白糸の滝と共に日本の滝百選の一つ。富士の巻狩りの際に曾我兄弟が仇討ちの密議をしていましたが滝の轟音で話ができず、神に念じたところ、滝の音が止んだという伝説が名称の由来とのことです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

蔵造りの町並み

埼玉県川越市の中心部には「蔵造りの町並み」が今も残されています。 蔵造りは類焼を防ぐために江戸の町家形式として発達した巧妙な耐火建築ですが、今の東京では見ることのできない江戸の面影を川越にとどめています。
コメント:0

続きを読むread more

時の鐘

川越の蔵造りの街並みを代表する市のシンボルとなっている鐘楼(時計台)。古くは鐘撞き守が決まった時間に時を知らせていましたが、現在では機械式で 1日に4回、川越城下に時を知らせているそうです。
コメント:0

続きを読むread more

箱根神社

箱根の芦ノ湖畔にある神社で、湖の中にある朱塗りの鳥居が有名です。ご祭神は、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメ、ヒコホホデノミコトの三神。古くから、交通安全・心願成就・開運厄除の神様として信仰されています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

日本武尊像

日本武尊は東征の途中、甲斐の国酒折宮より雁坂峠を越えて三峰山に登りました。そして、遥かに国中の地理を見渡し神威の擁護を願い、仮宮を造営してイザナギノ尊、イザナミノ尊を祀ったことが、三峰神社の始まりだそうです。
コメント:0

続きを読むread more

酒湧の池

横浜市泉区和泉町の第六天神社の傍にある小さな池。孝行息子がこの池の水を汲むと酒になり、一儲けしようとした村人が汲むと、ただの水になってしまったという昔話が伝わっている池です。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

代々木

明治神宮参道に立つ「代々木」の地名の由来となったとされている樹木。江戸時代に彦根藩井伊家下屋敷であった当地には代々樅の巨木があり「代々大きな木があった」という意味で「代々木」の地名が発祥したそうです。なお当時の木は、昭和20年5月の空襲の際、撃墜されたB-29が直撃して焼失したそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

明治神宮

東京都渋谷区に鎮座し明治天皇と昭憲皇太后をご祭神とする神社。境内には多くの樹木が育ち、神宮の森とも呼ばれ、都心部の貴重な緑地として親しまれています。また、初詣では例年日本一の参拝者数を誇っています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

江戸の殉教者顕彰碑

江戸時代に東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)から 品川に至る小高い地で50名の切支丹信者が火刑に処せられたのをはじめ、江戸全体では2千名近くの信者が殉教したとのこと。この江戸の大殉教者約2千人の信者を称えて、カトリック高輪教会の敷地内に顕彰碑がたてられています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大石良雄等自刃ノ跡

吉良邸討ち入りに成功した赤穂義士46名は4つの大名家に分けてお預けとなり、大石良雄は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられました。元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大石内蔵助墓

大石良雄、通称大石内蔵助は播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老。元禄15年(1702年)12月15日未明、赤穂浪士を率いて吉良邸討ち入りを果たし、翌年2月4日、細川邸で切腹、主君と同じ高輪の泉岳寺に葬られました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

浅野内匠頭長矩墓

浅野内匠頭長矩は播州赤穂藩藩主。元禄14年(1701年)3月14日、 殿中松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかり即日切腹。ここから赤穂義士の物語が始まりました。浅野内匠頭の墓は浅野家と所縁のあった東京芝高輪の泉岳寺にあります。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

首洗いの井戸(泉岳寺)

元禄15年(1702年)12月14日、赤穂47士は本所松坂町の吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。そして、赤穂47士は吉良上野介の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えましたが、その時に、この井戸で吉良上野介の首を洗ったと伝わっています。    
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

泉岳寺

東京都港区高輪にある曹洞宗のお寺で、赤穂義士の墓所として有名。江戸時代初期には外桜田にありましたが、火災で焼失。高輪への移転の際、助力した大名の一つに浅野家があったとのことです。    
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

政所跡

政所は、親王、三位以上の公家の家政を担当する機関のこと。鎌倉幕府では、源頼朝が従二位へ昇格したことにより公文所から改称されました。八幡宮三の鳥居の東側の建物の塀に、政所跡のプレート表示があります。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

北条義時墓跡

鎌倉の源頼朝の墓から程近く、大江広元などの墓の下にある広場の部分。ここにはかつて、鎌倉幕府2代執権北条義時の墓があった法華堂跡とされているところで、1辺が8.4mの正方形の形をした「三間堂」があったそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

法華堂跡

法華堂は源頼朝が聖観音像を本尊として建立した持仏堂。源頼朝は死後、持仏堂であった法華堂に葬られたと云われています。また、宝治合戦では、三浦泰村ら一族500名が自害したところでもあります。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

蛇苦止堂

建仁3年(1203年)の比企の乱で、比企の娘の若狭局は井戸に投身自殺。その後、文応元年(1260年)、北条政村の娘が若狭局の霊に祟られたので、政村が若狭局を蛇苦止明神として、この蛇苦止堂に祀ったと伝わっています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

竹御所墓

鎌倉の妙本寺境内にある竹御所(名は、鞠子あるいは媄子)の墓。竹御所は源頼家の娘で一幡の同母妹。公暁の異母妹と考えられていて、33歳で亡くなりましたが、源頼朝の最後の直系子孫だったそうです。
コメント:0

続きを読むread more

北条政子供養塔

鎌倉の安養院境内にある北条政子の墓とされる供養塔。安養院の正式名は祇園山安養院長楽寺で安養院は北条政子の法名。長楽寺は元々は政子が頼朝の菩提を弔うために長谷に建立した寺でした。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

安国論寺

長勝寺、妙法寺と並び、日蓮が鎌倉で布教した際の拠点となった草庵の跡。境内には、日蓮が立正安国論を執筆した岩穴(法窟)というのがありますが、その法窟の側に、弟子の日朗が安国論窟寺を建てたのが始まりとのことです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

旗立の松(由比若宮)

前九年の役が終息してから21年後の永保3年(1083年)、後三年の役が始まりました。奥州に向かう源義家が鎌倉に立ち寄り由比若宮に戦勝を祈願しましたが、その際、源義家が旗を立てたとされる松の幹が由比若宮の境内に残されています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

琵琶橋

鎌倉若宮大路の下馬交差点のすぐ近くにある橋で鎌倉十橋の一つ。橋名の由来は、昔この道筋に弁財天の祠があり、そのために道が琵琶のように曲がっていたという説と、弁財天の琵琶からとする説があるそうです。   
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

洲崎寺

香川県高松市にある弘法大師により創建されたと伝わるお寺。源平合戦の際には負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれてきて、戦いが激しくなり寺に火がつくと、義経の身代わりとなり戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣のあった瓜生ヶ丘まで運ばれたと伝わっています。
コメント:0

続きを読むread more

義経弓流しの地

屋島の戦いの際、勝ちに乗じた源義経は海中に打ち入って戦ううち、脇下にはさめていた弓を海中に落としてしまいました。その時、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ海中に落ちそうになりましたが、なんとか弓を拾い上げたと伝わる場所です。
コメント:0

続きを読むread more

総門跡

一の谷の戦いに敗れた平家は讃岐国屋島(現在の香川県高松市)へ逃れて本拠を構えました。屋島での平家は海辺の防衛に備えてここに総門を築いていたと伝わっています。
コメント:0

続きを読むread more

射落畠

寿永4年(1185年)2月19日、屋島の戦いにおいて、佐藤継信が源義経の身代わりとなり能登守平教経によって射落とされたと伝わる場所。佐藤継信は源義経の四天王の一人とされた武将でした。
コメント:0

続きを読むread more

山汐丸錨

山汐丸は就役後は日本陸軍の指揮下で運用される予定であった護衛空母兼用仕様のタンカー。三菱重工業横浜船渠で竣工しましたが、その場所が 現在は横浜みなとみらいとなっていて、そこに錨が屋外展示されています。
コメント:0

続きを読むread more

神奈川県庁庁舎

昭和3年(1928年)10月に完成した帝冠様式の建造物で、県内で最初の国登録有形文化財です。「キングの塔」の愛称を持ち、「クイーンの塔」、「ジャックの塔」とともに、横浜三塔の一つとして市民に親しまれています。
コメント:0

続きを読むread more

笛吹峠

埼玉県の鳩山町と嵐山町の境にある峠。 正平7年(1352年)2月25日、 新田義貞の三男新田義宗らが宗良親王を奉じて足利尊氏の軍勢と戦い、 最終的に戦いの決着がついたのがこの峠だったとのことてす。
コメント:0

続きを読むread more

新田金山城跡

群馬県太田市のほぼ中央にそびえる金山に築かれた山城で「太田金山城」、「金山城」の別名があります。文明元年(1469年) 新田一族である岩松家純によって築城され、日本100名城、関東七名城の一つとされています。
コメント:0

続きを読むread more

風宮(外宮)

伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の境内別宮。古くは現在の末社格の風社でしたが、弘安4年(1281年)の元寇の時に神風を起こし日本を守ったとして正応6年(1293年)に別宮に昇格したとのことです。
コメント:0

続きを読むread more

石川屋

横浜市中区の元町交差点近くにあるおでん屋さん。唐人お吉が横浜に住ん でいた頃、この店(当時は米店)の女主人が、いろいろとお吉の世話を焼き、 お吉に髪結いの仕事を紹介したとのことです。
コメント:0

続きを読むread more

横浜元町

元町は横浜を代表する商業地の一つとして有名な商店街。横浜開港に伴って立ち退いた旧横浜村住民がこの地に移住したことから「横浜元町」と呼ばれるようになったそうです。
コメント:0

続きを読むread more

クリーニング発祥の地

横浜が開港すると外国人相手のクリーニング業が始まりました。安政6年(1859年)の青木屋忠七に続いて、次々と業者が開業し、清水屋という大規模な洗濯屋のあった谷戸坂に記念碑がつくられました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

高橋是清邸

高橋是清は明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った政治家。高橋是清邸は元々は現在の東京都港区赤坂にありましたが、主屋部分が東京都小金井市の江戸東京たてもの園に移築されて展示保存されています。2・26事件で高橋是清が暗殺された部屋も残されています。
コメント:0

続きを読むread more

高橋是清暗殺現場

高橋是清は第20代内閣総理大臣で、総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い政治家。二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ暗殺されました。享年83(満81歳没)
コメント:0

続きを読むread more

フォール大佐像

J・P・フォール大佐(1869~1924)は、大正8年(1919年)1月にフランス 航空教官団として来日。当時第1級の操縦士として知られていて、優秀なフラ ンス空軍士官だったそうです。所沢航空記念公園に像があります。
コメント:0

続きを読むread more

航空整備兵の像

埼玉県所沢の所沢航空記念公園にある像。昭和18年(1943年)、彫刻家故長沼孝三氏が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
コメント:0

続きを読むread more

所沢航空記念公園

明治44年(1911年)4月5日に徳川好敏大尉が操縦するフランス製複葉機 アンリ・ファルマン機が高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒 の飛行を行なった日本初の航空機専用飛行場の跡にできた県営公園です。
コメント:0

続きを読むread more