日本武尊像

日本武尊は東征の途中、甲斐の国酒折宮より雁坂峠を越えて三峰山に登りました。そして、遥かに国中の地理を見渡し神威の擁護を願い、仮宮を造営してイザナギノ尊、イザナミノ尊を祀ったことが、三峰神社の始まりだそうです。
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酒湧の池

横浜市泉区和泉町の第六天神社の傍にある小さな池。孝行息子がこの池の水を汲むと酒になり、一儲けしようとした村人が汲むと、ただの水になってしまったという昔話が伝わっている池です。
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代々木

明治神宮参道に立つ「代々木」の地名の由来となったとされている樹木。江戸時代に彦根藩井伊家下屋敷であった当地には代々樅の巨木があり「代々大きな木があった」という意味で「代々木」の地名が発祥したそうです。なお当時の木は、昭和20年5月の空襲の際、撃墜されたB-29が直撃して焼失したそうです。
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明治神宮

東京都渋谷区に鎮座し明治天皇と昭憲皇太后をご祭神とする神社。境内には多くの樹木が育ち、神宮の森とも呼ばれ、都心部の貴重な緑地として親しまれています。また、初詣では例年日本一の参拝者数を誇っています。
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江戸の殉教者顕彰碑

江戸時代に東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)から 品川に至る小高い地で50名の切支丹信者が火刑に処せられたのをはじめ、江戸全体では2千名近くの信者が殉教したとのこと。この江戸の大殉教者約2千人の信者を称えて、カトリック高輪教会の敷地内に顕彰碑がたてられています。
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大石良雄等自刃ノ跡

吉良邸討ち入りに成功した赤穂義士46名は4つの大名家に分けてお預けとなり、大石良雄は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられました。元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされました。
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大石内蔵助墓

大石良雄、通称大石内蔵助は播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老。元禄15年(1702年)12月15日未明、赤穂浪士を率いて吉良邸討ち入りを果たし、翌年2月4日、細川邸で切腹、主君と同じ高輪の泉岳寺に葬られました。
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浅野内匠頭長矩墓

浅野内匠頭長矩は播州赤穂藩藩主。元禄14年(1701年)3月14日、 殿中松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかり即日切腹。ここから赤穂義士の物語が始まりました。浅野内匠頭の墓は浅野家と所縁のあった東京芝高輪の泉岳寺にあります。
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首洗いの井戸(泉岳寺)

元禄15年(1702年)12月14日、赤穂47士は本所松坂町の吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。そして、赤穂47士は吉良上野介の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えましたが、その時に、この井戸で吉良上野介の首を洗ったと伝わっています。    
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泉岳寺

東京都港区高輪にある曹洞宗のお寺で、赤穂義士の墓所として有名。江戸時代初期には外桜田にありましたが、火災で焼失。高輪への移転の際、助力した大名の一つに浅野家があったとのことです。    
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北条義時墓跡

鎌倉の源頼朝の墓から程近く、大江広元などの墓の下にある広場の部分。ここにはかつて、鎌倉幕府2代執権北条義時の墓があった法華堂跡とされているところで、1辺が8.4mの正方形の形をした「三間堂」があったそうです。
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法華堂跡

法華堂は源頼朝が聖観音像を本尊として建立した持仏堂。源頼朝は死後、持仏堂であった法華堂に葬られたと云われています。また、宝治合戦では、三浦泰村ら一族500名が自害したところでもあります。
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旗立の松(由比若宮)

前九年の役が終息してから21年後の永保3年(1083年)、後三年の役が始まりました。奥州に向かう源義家が鎌倉に立ち寄り由比若宮に戦勝を祈願しましたが、その際、源義家が旗を立てたとされる松の幹が由比若宮の境内に残されています。
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クリーニング発祥の地

横浜が開港すると外国人相手のクリーニング業が始まりました。安政6年(1859年)の青木屋忠七に続いて、次々と業者が開業し、清水屋という大規模な洗濯屋のあった谷戸坂に記念碑がつくられました。
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左馬神社

  横浜市泉区下飯田町に鎮座する神社で、境川沿いに多く見られるサバ神社の一社。祭神は左馬頭源義朝で、平安時代末期に飯田五郎家義が勧請したとも、小田原北条時代に領主川上藤兵衛が勧請したとも言われています。  
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富士塚城址

  横浜市泉区下飯田の富士塚公園に「富士塚城址」の碑が建っています。 飯田五郎家義の館があったとされているところで、飯田家義は、石橋山の 合戦で、大庭景親に従いながらも、頼朝の危機を救ったと伝わっています。  
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由比若宮遙拝所

  鎌倉の鶴岡八幡宮はもともとは材木座にあり、由比若宮と呼ばれています。 その由比若宮を現在の鶴岡八幡宮から遙拝できるのがこの場所で、舞殿か ら白旗神社へ向かう途中の右手にあります。  
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若宮大路幕府跡

  鎌倉幕府は当初、大蔵の地に置かれましたが、その後宇津宮辻に移動。 さらに、嘉禎2年(1236年)に若宮大路御所に移されました。そして、 元弘3年(1333年)、鎌倉幕府はついに、この地で終焉を迎えました。  
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東勝寺橋

  鎌倉旧市街地最大の河川である滑川の中流部に架かる橋で、この橋を 西から東へと渡ると、北条氏滅亡の地である東勝寺跡があります。また、 この橋の付近は、青砥藤綱の故事伝承が残るところでもあります。  
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東勝寺跡

  東勝寺はかつて鎌倉市葛西ケ谷にあったお寺で、北条氏の菩提寺である と同時に、城塞の意味をもった寺院であったと推測されているそうです。 鎌倉幕府滅亡時には、北条高時ら北条氏一門多数が自刃したところです。  
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腹切りやぐら

  鎌倉幕府は、元弘3年(1333年)、新田義貞による鎌倉攻めにより滅亡。 北条一族とその家臣約800名は、東勝寺に追い詰められ自害したとのこと。 東勝寺跡の近くに、当時の戦死者を弔ったと伝わる腹切りやぐらがあります。  
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新羅三郎手玉石

  新羅三郎は源頼義の三男、源義家の弟で、近江国の新羅明神(大津三井 寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎と称したとのこと。新羅三郎が 勧請した鎌倉の八雲神社に「新羅三郎手玉石」なる石があります。  
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八雲神社

  鎌倉の大町にある、1083年創建の鎌倉最古と云われている厄除け神社。 源義家の弟・源義光が京都の祇園社から祭神を分霊して祀り祈願したところ、 疫病が鎮まり、厄除け開運の神社として知られるようになったとのことです。  
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源義経首洗井

  源義経は、文治5年(1189年)、奥州平泉衣川高舘で自害し、その首は鎌倉 に送られ、腰越の浦で首実検されたとのことです。その後、その首は浜に捨て られ、ここに流れ着き、里人がこの井戸で洗い清めたと伝わっています。  
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戸塚宿上方見附跡

  横浜市戸塚区の富塚八幡宮から西に200m程のところに碑があります。 見付は、主要な街道の宿場の出入り口にある構造物で、一般に江戸側の 出入り口にある方を江戸見付、京側にある方を上方見付と呼んでいました。  
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冨塚八幡宮

  源頼義・義家父子が奥州下向の際に、この地で応神天皇及び富属彦命の 神託を授って戦功を収めたため、延久4年(1072年)に、両祭神をこの地 に勧請。また、境内山頂にある「富塚」が、「戸塚」の由来とされています。  
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明治天皇東幸史跡

  東幸とは東京行幸のことで、明治元年(1868年)と翌明治2年(1869年) の2回に亘って行われた、明治天皇の東京への行幸のこと。横浜市戸塚区 の八坂神社境内に、「明治天皇東幸史跡」の碑があります。  
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戸塚宿澤辺本陣跡

  戸塚宿は、東海道五十三次の5番目の宿場で、日本橋から旅程がちょう ど一泊目にあたり、旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模だったそ うです。戸塚宿の本陣には、澤辺・内田の二軒があったとのことです。  
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英一番館跡

横浜が開港したのは安政6年6月2日(1859年7月1日)のことで、開港と同時に多くの外国商社が横浜に進出してきました。ここは居留地1番地で、英国商社ジャーディン・マセソン商会横浜支店が店舗を構えたところです。   
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横浜海岸教会

  横浜の開港広場に隣接して建つ日本で最初のプロテスタント教会。当初は 横浜公会として、明治5年(1872年)2月2日に設立されましたが、明治8年 (1875年)に教会堂が建設されて、横浜海岸教会と改称されました。  
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鎌倉ハム倉庫

  明治10年、上柏尾村で英国人が、ハム・ソーセージなどの製造を開始。 現在の上柏尾町は当時は鎌倉郡だったため、鎌倉ハムと呼ばれました。 この倉庫は、赤レンガ倉庫と同じころの明治20年代の建造だそうです。  
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護良親王 首洗井戸

  大塔宮護良親王は後醍醐天皇の第一皇子で、建武の新政を支えましたが、 足利氏により捕縛され、鎌倉二階堂に幽閉中に暗殺されてしまいました。 護良親王の首級を奪い取った側近が、ここで御首を洗ったと伝わっています。  
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四つ杭跡

  大塔宮護良親王が鎌倉で殺害された後、その御首は家臣の手によりこの 地まで運ばれてきて、井戸の水で清められたと伝わっています。その際に、 4本の杭を打ち祭壇にしたとされる場所が、史跡となっています。  
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王子神社

  横浜市戸塚区柏尾町に鎮座する大塔宮護良親王をご祭神とする神社。 護良親王は、鎌倉の二階堂で殺害され、その御首は家臣(侍女?)によ りこの地まで運ばれてきて埋葬されたと伝わっています。  
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脇本陣跡(程ヶ谷宿)

  東海道の程ヶ谷宿には、本陣の他に脇本陣が3軒置かれていたそうです。 そのうちの一軒が水屋で、天保年間の規模は、建坪128坪(約423㎡)、 間口8間(約14.5m)、奥行16間(約29m)、室数14、だったそうです。  
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高札場跡(程ヶ谷宿)

  程ヶ谷宿は、東海道五十三次の、江戸から4番目の宿場町。高札場は、 幕府や領主からのお触れ等を書き記した木札を掲示した施設で、街道 に面した人通りの多い場所に設置されることが多かったとのことです。  
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帷子橋跡

  横浜の天王町駅前公園にある、旧東海道に架かっていた帷子橋の跡。 帷子橋は程ヶ谷宿の中にあり、「江戸より八里」の碑が建てられていて、 安藤広重の「東海道五十三次」の保土ヶ谷宿にも描かれている橋です。  
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神奈川台関門跡

  横浜開港後、生麦事件をはじめとする何件かの外国人殺傷事件が発生。 幕府は警備のため、安政6年(1859年)に横浜周辺に番所や関門を設置 しました。神奈川宿の西側に設置されたのが、この神奈川台関門でした。  
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桜屋跡

  広重の「東海道53次」の神奈川・台之景にも描かれているのが、「さくらや」。 文久3年に、田中家の初代がその「さくらや」を買い取り「田中家」がスタート。 坂本龍馬の妻おりょうも、住み込みの仲居として勤めていたとのことです。  
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