大久保犬屋敷跡

元禄年間に設置された犬御用屋敷の跡。5代将軍徳川綱吉の発した「生類憐れみの令」により、元禄8年(1695年)、飼い主のいない犬を収容するため、四谷・大久保・中野に「犬御用屋敷」が設置されました。大久保の「犬御用屋敷」は、2万3000坪の広で広さ、約10万匹の犬を収容したとのことです。
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大塚 ゆかりの地

文京区大塚の貞静学園の場所に、かつて「大きな塚」があり、それが大塚の地名の由来とのこと。この大塚は古くから古墳とか、中世の塚や物見やぐらの跡だったとも言われてきたそうです。また、貞静学園の改築に伴い、平成12年の発掘調査で、区内で初めて5〜6世紀代の竪穴住居跡が確認されたとのことです。
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路女墓

土岐村路は曲亭馬琴の嫡子滝沢宗伯興継の嫁でしたが、宗伯の死去後は馬琴夫婦と同居。そして、馬琴の失明後は、馬琴の作品の口述筆記を行い時に琴童の名で代作も行ったとのことです。筆記者として苦難を乗り越え貞女として賞賛された路の墓は、馬琴の墓と同じく文京区小日向の深光寺にあります。
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滝沢馬琴墓

滝沢馬琴は「南総里見八犬伝」「椿説弓張月」など、多数の作品を残した江戸時代後期の著名な戯作者。著作堂、蓑笠、玄同、など多くの別号をもち、晩年は髪をおろして曲亭馬琴と号したとのこと。東京都文京区の深光寺にある墓碑には、馬琴の法名と、馬琴より先に没した妻お百の法名が刻まれています。
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切支丹屋敷跡

正保3年(1646年)に、大目付兼宗門改役であった井上政重の下屋敷内に牢や番所を建てて設けられたのが切支丹屋敷。禁教下の日本に上陸した外国人宣教師等がここに収容され尋問を受けました。火災で焼失後、再建されることもなく、寛政4年(1792年)に宗門改役の廃止と同時に正式に廃されました。
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一ツ橋門跡

かつて、一ツ橋を渡った処には枡形の門があり、一ツ橋御門と呼ばれていました。江戸城36見附の一つで立派な門だったようですが、現在では石垣の一部が残されているのみです。
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一橋徳川家屋敷跡

一橋家は、徳川将軍家の血筋を保持するために設けられた家で、田安家、清水家とともに御三卿と呼ばれていました。将軍家に後嗣がないときは御三家および御三卿から適当な者を選定することとされていて、徳川慶喜は、水戸徳川家からこの一橋家に養子に入り、後に徳川15代将軍となりました。
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震災イチョウ

このイチョウの木はかつての「文部省」跡地(現在の毎日新聞社本社ビル近く)にありましたが、関東大震災による火災から幸運にも焼失を免れました。当時の人々に復興への希望を与えたことから「震災イチョウ」と呼ばれ、復興事業に伴う区画整理で切り倒されそうにもなりましたが、この地に移植されました。
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和気清麻呂像

和気清麻呂は奈良時代末から平安初期の貴族で、神護景雲3年(769年)に2度めの宇佐八幡の神託を奏上し、道鏡の野望を砕いたと伝わっています。昭和15年(1940年)に紀元2600年を記念して、忠臣の鑑として皇居近くの大手濠緑地内に像が建てられました。
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海軍兵学寮・海軍軍医学校跡

東京・築地に海軍操練所が創立開設されました(明治2年)が、翌年に海軍兵学寮と改称されました。さらに明治9年(1876年)には、改称されて海軍兵学校がこの地に開校。海軍兵学校は明治21年に広島県の安芸郡江田島町に移転していきました。海軍軍医学校は、明治41年(1908年)に芝山から築地に移転してきて、終戦の年までこの地にあったとのことです…
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農産陳列所・蚕病試験場跡

明治政府は農業振興のため明治7年に、現在の新宿区に蚕業試験掛と農業博物館を設立しました。明治16年(1883年)には、現在地に博物館の業務を継承する農産陳列所が、その翌年には蚕病試驗場が設置されました。その後2度移転し、現在は小金井市にある東京農工大学工学部となっています。
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鹿鳴館跡

鹿鳴館は、明治16年(1883年)に日本の欧化政策の一環として建設された西洋館。外国との社交場として使用され、明治10年代後半は「鹿鳴館時代」と呼ばれています。明治23年(1890年)からは華族会館として使用されるようになり、昭和16年(1941年)に取り壊されたとのことです。
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岡上景能像

岡上景能は養父景親の跡をついで幕府代官となり、各地の用水路整備や開墾に尽力しました。しかし、用水路建設の費用に年貢米を流用したなどの理由により江戸に召喚され、その道中の貞享4年(1688年)12月3日、駕籠の中で切腹し死去。上野笠懸野の用水路は今でも岡上用水と呼ばれているとのことです。
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相沢忠洋像

相沢忠洋は、納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行い、岩宿遺跡を発見した考古学者。昭和24年(1949年)に群馬県新田郡笠懸村(現みどり市)の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本列島の旧石器時代の存在を証明しました。
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岩宿遺跡(A地点)

昭和21年(1946年)頃、相沢忠洋によって発見された群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡。この発見によって、それまでの定説が覆され、日本にも旧石器時代が存在したことが証明されました。発見場所の切通の北側がA区、南側がB区と命名され、A区において上下2層の石器文化層が確認されました。
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岩宿遺跡(B地点)

旧石器時代の遺跡である岩宿遺跡(群馬県群馬県みどり市)は、昭和21年(1946年)に相沢忠洋によって発見されましたが、それがB地点だったとのこと。現在、B地点は「史跡岩宿遺跡遺構保護観察施設」(岩宿ドーム)として公開されています。
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鶴岡八幡宮

宇佐八幡、石清水八幡宮、筥崎宮と並ぶ代表的な八幡宮で、源頼朝が鎌倉に本拠を定めたとき、由比ガ浜にあった鶴岡若宮をこの地に移したのが始まり。鎌倉武士の守護神として崇拝され、 境内は国の史跡に指定されています。
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相馬次郎師常之墓

相馬次郎師常は千葉氏の庶流で、相馬氏初代当主となる鎌倉時代の武将。父の千葉常胤と共に源頼朝の挙兵に参加し、源範頼の軍勢に従って各地を転戦したとのこと。また「源平闘諍録」では、頼朝の最初の妻で父伊東祐親によって離縁させられた三女(八重姫)と、後に頼朝の計らいで結ばれたと伝わっています。
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浄光明寺

鎌倉市扇ガ谷にある真言宗泉涌寺派のお寺。北条氏や足利氏と所縁のあるお寺で、建武2年(1335年)12月、足利尊氏が後醍醐天皇に対し挙兵する直前、このお寺に籠ったと伝わっています。
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藤谷黄門遺跡

藤谷黄門(冷泉為相)は、鎌倉時代の公卿・歌人。官位は正二位・権中納言で、冷泉家の祖。父は藤原為家、母は「十六夜日記」作者の阿仏尼。藤谷家の家名は為相が鎌倉の藤ヶ谷に関東における別宅を構えた事に由来するとのこと。公家でありながら幕府と非常に親しい関係にあり、鎌倉市の浄光明寺に葬られました。
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扇谷上杉管領屋敷跡

扇谷上杉管領家は4家(山内、扇谷、宅間、犬懸)あった管領家の一つ。太田道灌はこの扇谷上杉家の家宰でしたが、主君により暗殺されました。その後、扇谷上杉家は川越夜戦で主君が討ち死にをして滅亡しました。     
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旧和田家

和田家は江戸時代に萩園村(現茅ヶ崎市)の村役人を務めた家柄で、この建物は、同家11代和田清右衛門によって建てられたとのことです。移築復元のための解体作業中に「安政2年(1855年)3月吉日」の年号のある棟礼が発見され建築年代が明確になり、また、別資料により、建築準備が始まったのが嘉永4年(1851年)等の普請に関わる様々なことが詳細に分…
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伊勢堂岱遺跡

秋田県北秋田市脇神字伊勢堂岱にある縄文時代後期前半の環状列石が主体の遺跡で、国内で唯一4つの環状列石が発見されています。国の史跡に指定されていて、令和3年(2021年)に世界文化遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する遺跡の一つでもあります。
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十和田湖

秋田県と青森県にまたがる美しい湖で、十和田八幡平国立公園の中にある日本を代表する観光地。十和田火山の噴火で形成された二重カルデラ湖で、現在も活火山に指定されています。和井内貞行のヒメマス放流の話でも有名な湖です。
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大湯環状列石

秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。東西に野中堂と万座の二か所の環状列石があり、環状に石が配置されていることから、ストーンサークルとも呼ばれています。令和3年(2021年)7月27日に大湯環状列石を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産登録されました。
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角館武家屋敷

秋田県仙北市の「みちのくの小京都」とも呼ばれている観光地で、現在も藩政時代の地割が踏襲され、武家屋敷等の建造物が数多く残されています。 また、桜の名所として知られていて、毎年多くの観光客でにぎわっています。
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辰子像

昔から田沢湖に伝わる伝説、田沢湖畔に暮らしていた類稀な美しい娘の辰子が永遠の若さと美を願い、観音の教え通りに泉の水を飲んだところ、龍に化身したという伝説。この伝説をもとにしたのが、舟越保武作のこの像です。
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鷹狩りの松

東北自動車道下り線の前沢サービスエリアの駐車場にある松の木。前沢SAは、自然林や現在の位置に1本だけあった松をそのまま残すよう工夫されたもので、この地は慶安2年(1649年)仙台藩主2代目伊達忠宗公らが鷹狩りをした場所と伝えられているため、この松を「鷹狩りの松」と名づけたそうです。
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岸田邸長屋門

藤沢市高倉に残る、江戸時代後期に、七つ木村の名主であった岸田三郎兵衛が建築したとされる長屋門。農村の長屋門は、名主.庄屋など村役人を務める一部の特別の農民だけに建てることが許され、現在も各地に残る長屋門の多くは、江戸時代の家格による建築規制の無くなった明治以降に建てられたものとのことです。
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左馬神社(下和田)

神奈川県中部の境川流域に12社あるサバ神社の中の1社。この地域を渋谷氏(源義朝の従者の一族)が治めていたこと、、また、その後の江戸時代初頭には、源義朝を裏切った長田忠致の末裔である長田忠勝・白政兄弟が治めたことなどから、源義朝を祭神とするサバ神社が多いと考えられているとのことです。
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北朝鮮工作船

平成13年(2001年)12月22日、九州南西海域において、海上保安庁の巡視船と銃撃戦の末自沈した北朝鮮の工作船。その後、海底から引き揚げられ、「船の科学館」で展示されていましたが、平成16年(2004年)12月10日からは横浜海上防災基地内の「海上保安資料館横浜館」で展示されています。
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鯖神社(下和泉)

境川・和泉川の中流域に点在するサバ神社の1社で、ご祭神は源満仲。慶長年間(1596年~1615年)に勧請されたと伝わり、また、元禄2年(1689年)の社殿修復の棟札が残されていて、天保 7 年(1836年)には神袛管領であった占部朝臣良長が「鯖大明神」の額を奉納しているとのことです。
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中之宮左馬神社

横浜市泉区を流れる和泉川沿いに見られるサバ神社の中の一社。ご祭神は左馬頭源満仲と天照皇大神で、中和泉地域の鎮守となる神社。寛永2年 (1625年)に、松平勝左衛門昌吉が、再興したとのことです。
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御岳の神代ケヤキ

東京都青梅市の御岳登山鉄道(御岳山ケーブルカー)御岳山駅から武蔵御嶽神社に向かう参道の右側に立つ欅の古木。社伝によれば、日本武尊の東征の折に御岳山に登り武具を蔵に納めた頃には既に生息していたとも、日本武尊が東征の折に植樹したとも伝えられ、「神代」もこの伝承から取られているとのことです。
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畠山重忠公像(武蔵御嶽神社)

東京都青梅市の武蔵御嶽神社宝物殿前に立つ「清廉の武将畠山重忠」像。宝物殿には重忠の奉納と伝わる国宝の赤糸威鎧が収蔵されていて、この像は武蔵御嶽神社百年式年記念事業として建立されたそうです。また、この像はヘリコプターで空輸されたとのことで、軽量化を図られたのか、アルミ鋳造となっています。     
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武蔵御嶽神社

東京都青梅市の武蔵御岳山の山上に鎮座し、崇神天皇7年(紀元前91年)の創建とされる神社。天平8年(736年)に行基が蔵王権現を勧請したと伝わり、中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得したとのことです。
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弘法山

丹沢山塊の南端に位置する秦野市東部にある標高235mの山。山の名は、弘法大師がこの山で修行を行ったという故事に由来しているとのことで、山頂の釈迦堂には弘法大師像が祀られています。また、日露戦争勝利を記念して桜が植樹され、かながわの花の名所100選に選ばれるなど、桜の名所にもなっています。
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佐波神社

藤沢、大和に点在している「サバ神社」中の1社で、社名の由来は、ご祭神の源義朝公の官位の「左馬頭」といわれています。一説では、この地で勢力のあった石川六人衆によって慶長16年(1611年)に勧進され、最初は左馬頭神社、次に鯖神社と称し、水害の後、再び佐波神社と改められたとのことです。
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左馬大明神

藤沢市西俣野に鎮座する神社で、源義朝公をご祭神とするサバ神社12社の中の一社。元はこの地から西方にある小栗塚の台地にありましたが、明治の初めに現在地に移されたとのことです。
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閻魔堂(法王院十王堂)跡

藤沢市西俣野の小栗判官伝説に関わる場所の一つで、小栗墓塔があります。かつてこの地にあった閻魔堂(法王院十王堂)は天保11年(1840年)に焼失しましたが、閻魔大王像は焼失を免れ、花応院に移されて安置されているそうです。
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双体道祖神

道祖神は、厄除、災害の防止や子孫繁栄を祈願するために、村の守り神として、主に道の辻に祀られてきた民間信仰の石仏です。この双体道祖神のある処は、鎌倉上ノ道と呼ばれた主要古道の通る道筋であったため、旅や交通安全の石仏としても信仰を集めたものと思われているそうです。
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左馬社

横浜市瀬谷区に鎮座する神社で、ご祭神は左馬頭源義朝公。境川沿岸には「サバ」の社号をもつ社が点在していますが、当社もその中の一社。その昔、源家縁りの人等が当地に、源義朝公を斎ったものと伝えられるそうです。
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左馬神社(上和田)

神奈川県中部の境川中流域、横浜市、藤沢市、大和市にかけて12社あるサバ神社の中の一社。古くより相模の七鯖神社の一つに数えられ、神社名も鯖大明神(宝暦14年)・左馬大明神(文化13年)・和田左馬大明神(慶応2年)と変遷し、明治42年に現在の左馬神社となり村社に列せられているとのことです。
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上浜田1号墳

海老名市浜田町には古墳時代中頃に造られた古墳が幾つか点在していて、上浜田古墳群と呼ばれています。このうちの1号墳~3号墳が近接していたことから三塚と呼ばれ、現在では浜田三塚公園として整備されています。しかし、3号墳はすでに墳丘が失われていて、公園内には1号墳と2号墳だけが残されています。
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上浜田2号墳

海老名市浜田町の浜田三塚公園には、上浜田1号墳と上浜田2号墳がありますが、上浜田2号墳からは、平成26年(2014年)~平成27年(2015年)にかけて、長さが80cmあり、木製のさやがしっかり残っていてる県内でも最大級の鉄剣、それに勾玉など発見されたとのことです。
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大谷寺

宇都宮市大谷町にある大谷石凝灰岩層の洞穴内に堂宇を配する日本屈指の洞窟寺院で、洞穴内には国の特別史跡および重要文化財に指定されている「大谷磨崖仏」があります。 本尊は凝灰岩の岩壁に彫られた丈六(約4.5m)の千手観音で、この像は、弘仁元年(810年)に空海が刻んだとの伝承があるそうです。
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八幡神社

横浜市泉区の和泉川沿いに鎮座する神社。「織部八幡」とも呼ばれていて、元亀年間に汲沢の郷士、森織部義秀が勧請したと伝わっているそうです。また、この境内からは、今から1万2~3千年前の先土器時代の遺物で、食物を焼くのに用いられた「礫群」というこぶし大の小石や石斧が多数発見されたとのことです。
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藤田小四郎之像

藤田小四郎は、水戸藩主徳川斉昭の側用人であった藤田東湖の四男。元治元年3月27日(1864年5月2日)、即時鎖港の要求・支援のため同志など60人余りとともに筑波山で挙兵し失敗。越前国新保で加賀藩に捕縛され、元治2年2月23日(1865年3月20日)敦賀の来迎寺で処刑されました。享年24。
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岩殿山城跡

岩殿山城は現在の山梨県大月市の標高634mの岩殿山に築かれた山城。甲斐国都留郡の国衆小山田氏の居城とされ、東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持ち、新府城を捨てた武田勝頼はこの城を目指していたそうです。
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鎌倉街道上ノ道

鎌倉街道には上道・中道・下道という3つの主要道があり、上ノ道は、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、鎌倉-瀬谷-本町田-府中-所沢-入間-笛吹峠-山名-高崎のルートだったとのこと。横浜市泉区の境川に沿ったこの道も鎌倉街道上ノ道の跡だそうで、源頼朝が鎌倉入りをした時に通った道とされています。
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