テーマ:福島

如来堂

  会津若松市の鶴ヶ城から北西、阿賀川の近くにある如来堂。明治元年 (1868年)年9月4日、会津城下に来襲した新政府軍は、如来堂に立てこ もる新選組に激しい攻撃を加え、新選組は全滅したと伝えられています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

中野竹子殉節之地

  明治元年(1868年)8月25日、黒髪を断ち、薙刀をかかえて衝鋒隊に 加わった中野竹子は、城下にせまる長州・大垣藩の兵士とここで遭遇。 激戦の中、敵の銃撃に会い、壮烈な戦死をとげました。 享年22歳。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

中野竹子像

  中野竹子は幕末期の会津藩の女性で、容姿端麗で聡明、薙刀は免許皆伝 ほどの腕前であり、男勝りの女丈夫として知られていました。会津戦争に際 して、自主的に婦女隊として戦い、壮絶な戦死をしました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

清水屋旅館跡

  会津若松市の七日町通り、大東銀行会津支店がある場所が清水屋旅館跡。 吉田松陰が東北紀行の途中に、また戊辰戦争の際には新選組副長土方歳三 が宿泊した旅館で、明治には清水屋事件が起きている場所でもあります。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

上杉謙信公仮廟所跡

  会津若松城内の西南の一画にある上杉謙信公の仮廟所跡。慶長3年 (1598年)、上杉景勝は会津移封にともない、上杉謙信公の墓所も会 津に移したとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

会津若松城

  会津若松市ある城で、鶴ヶ城、あるいは単に会津城とも呼ばれています。 保科正之が23万石で入封以来、明治維新まで会津松平家の居城であり、 戊辰戦争の際には、1か月にも及ぶ激戦の舞台ともなりました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

芦ノ牧温泉

  福島県会津若松市にある温泉で、阿賀川を見下ろす高台に温泉街が広がり、 「会津芦ノ牧温泉」と呼ばれることも多いとのことです。開湯伝説では行基によ る発見ですが、弘法大師による発見説もあるそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

戸の口堰洞穴

  天保年間に会津平野の灌漑用水として猪苗代湖より通水した洞穴。戊辰戦争 の折、 白虎隊が鶴ヶ城の情勢を確認するため、戸の口原から飯盛山に向かう 途中、この洞穴を通ったとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

白虎隊の墓

  福島県会津若松市の飯盛山山中にある白虎隊士19名の墓。戊辰戦争後、 白虎隊士の埋葬は許可されず、密かに妙国寺に仮埋葬されていましたが、 明治2年にようやく飯盛山の中腹に合葬が許されたとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

白虎隊自刃の地

  若松城下に迫りつつある新政府軍を迎え撃つため、白虎隊二番隊は戸ノ口原 に出陣。しかし決定的打撃を受け飯盛山へと落ち延びてきた総勢20名は、飯 盛山から城下の火災を目にし、終にこの地で自刃を決行しました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

飯沼貞雄墓

  会津若松市の飯盛山にある白虎隊の生存者、飯沼貞吉の墓。年齢を偽って 白虎隊に参加し、飯盛山で他の十九士と共に自刃に及びましたが、死に切れ ず命を救われました。維新後は貞雄と改名し、77歳で生涯を終えました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

松平容保弔歌の碑

  会津若松市の飯盛山にある、松平容保が白虎隊に捧げた弔歌の碑。  「幾人の涙は石にそそぐともその名は世々に朽じとぞ思う」 源容保 松平容保は、会津戦争の時の会津藩主でした。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

戸ノ口原古戦場

  慶応4年 (1868年)8月22日、新政府軍は母成峠の藩境を突破し、さらに 「戸ノ口十六橋」を占拠して、会津城下への侵入の動きを見せました。この 地で、これを迎え撃とうとした白虎隊も苦戦し、撤退を余儀なくされました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

十六橋

  猪苗代町と会津若松市に跨る日橋川に架かる橋で、旧若松街道が通る橋。 名前の由来は弘法大師が16の塚を作り橋を作ったとのことからだそうです。 慶応4年(1868年)に、会津戦争「十六橋の戦い」の舞台となった橋です。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

旧二本松街道並木道

  楊枝峠経由の若松城下と本宮宿を結ぶ街道の会津領内部分が二本松街道。 明治25年(1892年)の新県道の開通により、旧街道は衰退の一途をたどり ましたが、この付近の松並木は、街道跡として良好な状態を残しています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

三忠碑

  天正17年(1589年)に起こった摺上原の戦いで、主君の危急を救うために 戦死した、蘆名氏の家臣三名(金上盛備・佐瀬種常・佐瀬常雄)の忠誠心を 後世に伝えるために、古戦場に建てられた石碑です。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

猪苗代城跡

  会津の猪苗代にある城跡で、鶴ヶ城に対して亀ヶ城とも呼ばれていた城の跡。 江戸幕府の一国一城令発布の際も、その例外として存続が認められ、藩主の 保科正之の死後は、その墓所の守護という重要な役目も担ったとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

母成峠古戦場

  慶応4年(1868年)8月21日に行われた母成峠の戦いの戦場跡。会津藩境 の母成峠を守る旧幕府軍800が、新政府軍2,200と戦いましたが、兵力及 び兵器の差で勝てず、旧幕府軍は敗走しました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

内藤四郎兵衛戦死之地碑

  再建された二本松城箕輪門の手前に建つ内藤四郎兵衛戦死之地の碑。 内藤四郎兵衛は、戊辰戦争時の二本松城の大城代で、落城の際、城門 を開き敵軍に切り込んで獅子奮迅の末、壮絶な最期を遂げたそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

二本松少年隊像

  二本松少年隊とは戊辰戦争に出陣した二本松藩の少年兵部隊のこと。 本来は13歳以下は出陣不可でしたが、危急の措置として12歳の少年 も出陣して戦死し、戊辰戦争における悲劇の一つとして知られています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

丹羽和左衛門・安部井又之丞自尽の碑

  戊辰戦争で、慶応4年(1868年)の7月に二本松城は落城しましたが、その 際、丹羽和左衛門(城代)と安部井又之丞(勘定奉行)は共に自尽。その両人 の供養碑が、天守台の近くに建てられています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

二本松城

  二本松城は福島県二本松市にある城で、日本100名城の一つ。戊辰戦争 時には二本松藩と明治新政府軍との戦いの舞台ともなり、落城に際し、動 員れた少年兵が犠牲となったことで知られています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more