テーマ:赤穂事件

大石良雄外十六人忠烈の跡

吉良邸討ち入り後、大石内蔵助他計17名は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷が預けられ、元禄16年(1703年)2月4日、同屋敷で切腹しました。港区の都営高輪アパート内に切腹の跡とされる場所が残されています。
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大石良雄等自刃ノ跡

吉良邸討ち入りに成功した赤穂義士46名は4つの大名家に分けてお預けとなり、大石良雄は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられました。元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされました。
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大石内蔵助墓

大石良雄、通称大石内蔵助は播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老。元禄15年(1702年)12月15日未明、赤穂浪士を率いて吉良邸討ち入りを果たし、翌年2月4日、細川邸で切腹、主君と同じ高輪の泉岳寺に葬られました。
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浅野内匠頭長矩墓

浅野内匠頭長矩は播州赤穂藩藩主。元禄14年(1701年)3月14日、 殿中松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかり即日切腹。ここから赤穂義士の物語が始まりました。浅野内匠頭の墓は浅野家と所縁のあった東京芝高輪の泉岳寺にあります。
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首洗いの井戸(泉岳寺)

元禄15年(1702年)12月14日、赤穂47士は本所松坂町の吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。そして、赤穂47士は吉良上野介の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えましたが、その時に、この井戸で吉良上野介の首を洗ったと伝わっています。    
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泉岳寺

東京都港区高輪にある曹洞宗のお寺で、赤穂義士の墓所として有名。江戸時代初期には外桜田にありましたが、火災で焼失。高輪への移転の際、助力した大名の一つに浅野家があったとのことです。    
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南部坂

東京都港区赤坂の米国大使館宿舎脇を西北に上り、左折して氷川神社の方に上る坂。「忠臣蔵」の名場面のひとつ、大石良雄が瑤泉院に暇乞いに 訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られています。
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浅野土佐守邸跡

元禄の頃に浅野土佐守の屋敷があった処。浅野内匠頭が切腹した時、夫人の瑶泉院はここ実家の浅野式部小輔長照のところに引き取られ、以後正徳4年(1714年)に死去するまで、この地で幽居していました。
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お軽勘平戸塚山中道行の場の碑

横浜市戸塚区戸塚町の国道1号線沿いにある、お軽勘平の碑。仮名手本忠臣蔵の中で、お軽と勘平は駆け落ちをすることになり、その途中の戸塚の山中で甚平はお軽の身を案じる、その場面がここだったとのことです。
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小野寺いよ墓

小野寺いよは小野寺十内の妻である丹の妹で小野寺十内の養女になった女性。 赤穂浪士の討ち入りの年である元禄15年(1702年)の4月21日に没。いよの墓は京都市下京区、堀川五条近くにある小野寺丹の墓の隣にあります。
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小野寺丹墓

小野寺丹は赤穂義士の一人である小野寺十内の妻。江戸で夫が切腹すると丹は本圀寺で食を断ち亡くなったとも、娘の墓前で切腹したとも伝わっています。京都市下京区、堀川五条近くの路地の奥に墓があります。
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一力亭

京都の祇園の中でも最も格式の高い由緒のある「お茶屋」。歌舞伎の「仮名手 本忠臣蔵」にも登場するお茶屋で、元々の屋号は「万亭」でしたが、この芝居が 大当たりし、実在の屋号までが芝居の中で使われた「一力」になったそうです。
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赤穂義士遺髪塔跡

京都市上京区瑞光院前町に残る臨済宗大徳寺派のお寺、瑞光院の跡。 瑞光院には浅野長政の供養塔、大石良雄をはじめとする46士の遺髪塔が ありましたが、瑞光院は昭和37年(1962年)に山科区安朱へ移転しました。
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松の大廊下跡

元禄14年(1701年)3月14日、勅使の接待役(勅使饗応役)であった浅野内匠頭がここで吉良上野介に 斬りかかり、あの有名な忠臣蔵の物語が始まりました。皇居東御苑内に碑がたてられています。
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義士足洗いの井戸

吉良邸に討ち入りし、本懐を遂げた赤穂義士たちが泉岳寺へ向かう途中、2名の義士が大目付仙石伯耆守邸に出向きました。その2名が座敷に上がる際に足を洗ったという井戸が虎ノ門の日本消防会館内に再現されています。
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両国回向院

正式名は諸宗山無縁寺回向院。本所回向院とも呼ばれる浄土宗の寺院。 明暦の大火(1657年)の死者10万8千人を葬った万人塚が始まりです。 全ての生き物を供養するという理念から、動物の慰霊碑等も多数あります。また、赤穂義士が吉良邸討ち入りの後、立ち寄ろうとしたところでもあります。
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吉良義周墓

吉良義周は吉良上野介義央の孫にして養子でもあった人物で、松の廊下の刃傷事件の後、吉良義央のあとを継いで吉良家の 当主となりました。しかし、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件のため改易されてしまい、その後、信濃諏訪藩主諏訪忠虎にお預けとなり21歳で亡くなりました。
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浅野内匠頭屋敷跡

聖路加国際病院と河岸地を含む一帯は赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、浅野内匠頭長矩もこの屋敷で生まれたとのこと。吉良邸討ち入り後の47士は、この上屋敷跡の前を通って泉岳寺まで引き揚げたそうです。
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毛利甲斐守邸跡

東京の六本木にある長門長府藩主だった毛利綱元の麻布上屋敷の跡地で、現在は六本木ヒルズの毛利庭園になっています。元禄15年(1702年)、赤穂浪士の10人がお預けになり、翌年の2月4日同屋敷で切腹となりました。
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伊予松山藩三田中屋敷跡

東京都港区三田二丁目の、現在はイタリア大使館になっている伊予松山藩三田中屋敷で、元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により、大石主税(良金)以下10名の赤穂浪士が切腹しました。    
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水野監物邸跡

水野監物邸跡は東京都港区芝にある三河岡崎藩主・水野家の中屋敷跡。赤穂事件で吉良上野介の屋敷に討ち入った赤穂浪士47士のうち9名が幕府の沙汰を待つためにお預けになった処で、元禄16年(1703年)2月4日に切腹した場所です。
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主税の梅

大石主税良金は大石内蔵助の嫡男で、父とともに吉良邸討ち入りに参加。討ち入り後は伊予松山藩江戸三田屋敷に預けられ、翌年2月にそこで切腹しました。主税が切腹をした屋敷の庭に植えられていたという梅が泉岳寺にあります。
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浅野内匠頭終焉の地

元禄14年(1701年)3月14日、播州赤穂藩藩主浅野内匠頭長矩は殿中松の廊下で突然吉良上野介に斬りかかり即日切腹。内匠頭切腹の場所は芝愛宕下の一関藩主・田村建顕の屋敷でした。
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首洗いの井戸(吉良邸)

元禄15年(1702年)12月14日(15日未明)、赤穂47士が吉良邸討ち入りを決行。見事、主君の仇である吉良上野介の首級をあげることができました。首洗いの井戸は、旧吉良邸、現在の本所松坂町公園内にあります。
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吉良邸跡

元禄15年(1702年)12月14日、赤穂義士が討ち入ったのが、この地にあった吉良邸。当時は、約8400平方メートル(2500坪)という広大な屋敷だったそうです。現在は、墨田区立の「本所松坂町公園」となっています。
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