山口城址

  京都府綴喜郡宇治田原にある信長の家臣、山口秀康の築城とされる城の址。 本能寺の変直後、徳川家康が伊賀越えをする際に立ち寄ったと伝わっていま すが、現在は畑になっていて城の痕跡は見当たらず案内板があるのみです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

東寺

  教王護国寺という名も持つ東寺真言宗の総本山。延暦15年(796年)に、 平安京の羅城門の東側に王城鎮護の寺として建立されました。木造建築 としては日本一の高さを誇る五重塔は京都のシンボルになっています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

北条仲時墓

  北条仲時は鎌倉時代の北条氏一門で、鎌倉幕府最後の六波羅探題北方。 元弘3年(1333年)5月、六波羅を攻め落とされると、東国へ落ち延びようと しましたが叶わず、番場の蓮華寺本堂前で一族432人と共に自刃しました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

蓮華寺

  滋賀県米原市番場にある、浄土宗(旧時宗)のお寺で、聖徳太子によって 開かれた寺と伝えられ、当初は寺号を法隆寺と称していたとのことです。 六波羅探題北方の北条仲時が、一族郎党432名と伴に自刃したお寺です。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

安土城

  天下制覇を目指した織田信長が、琵琶湖畔の安土山に築いた城。岐阜城 よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できる等の利点がありました。優れた 築城技術も導入されていて、以降の各地の築城にも影響を与えました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

平宗盛終焉の地

  平宗盛は平清盛の三男、平家一門の武将・公卿で、官位は従一位内大臣。 壇ノ浦の戦いで、宗盛は死にきれずに捕虜となり、鎌倉に送られましたが、 京都に送還される途中、嫡男清宗とともに、近江国篠原宿で斬首されました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

義経元服池

  承安4年(1174年)、鞍馬山を脱出した牛若丸は、現在の滋賀県竜王町の 時の長者「沢弥傳」の屋敷に泊まり、その夜、元服することを決意しました。 この池の水を用いて元服した牛若は以後、源義経と名乗るようになりました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

烏帽子掛けの松

  滋賀県竜王町の鏡神社の参道にある松の古木。鏡の宿でただひとりで元服 した牛若が元服後に鏡神社に参拝し、源九郎義経と名乗りをあげて、源氏の 再興を祈願した際に、この松の枝に鳥帽子をかけたと伝わっています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

源義経宿泊館跡

  京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、近江の「鏡の宿」(現在の滋賀県竜王町) に到着した牛若丸一行は、承安4年(1174年)3月3日、当時の宿駅の長で あった澤弥伝の「白木屋」の旅籠に宿泊したと伝わっています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

新選組屯所跡(不動堂村)

  慶応3年(1867年)6月15日、新撰組は現在の京都駅近くの不動堂村に、 大名屋敷のような広大な屋敷を建てて、屯所をそこに移したそうです。しか し、約半年しか使用されず、「幻の屯所」などとも呼ばれているそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

安居天神

  大阪市天王寺区にある神社で、安居天満宮、安井神社とも呼ばれています。 元々は、少彦名神を祀る神社ですが、菅原道真が大宰府に流されるときに、 風待ちのために休息をとったことで、その名がついたとの伝承があるそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

真田幸村像(安居神社)

  真田幸村(真田信繁)は大坂冬の陣では大坂城の南側に真田丸を築いて 徳川勢を撃退し、夏の陣では家康の本陣に突撃するなどの活躍をしました。 真田信繁の討死にした場所と伝えられる安居神社境内に像があります。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

真田信繁戦死の地

  慶長20年(1615年)5月7日午後の天王寺・岡山合戦において、真田信繁 (幸村)は、茶臼山のすぐ北側にある安居神社境内で、越前松平隊鉄砲頭の 西尾久作という者に首をとられたと伝わっています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

真田幸村戦没地碑

  真田幸村(本名真田信繁)は、大坂夏の陣において3500の兵を率いて 徳川家康の本陣まで攻め込み、徳川家康を窮地に追い込みました。しか し、目的を果たせず、安居神社境内で討ち取られたと伝わっています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

四天王寺

  大阪市天王寺区四天王寺にあるお寺で、蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並 び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものとのことです。日本 仏教の祖とされる聖徳太子による建立で、太子建立七大寺の一つです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

義経よろい掛け松

  大阪市天王寺区の四天王寺境内にある源義経が鎧を掛けたと伝わる松。 源義経が京を逃れ、大物浦からの船出に失敗して和泉国に流れ着き、四 天王寺に一宿した際に、鎧を掛けた松と伝わっているそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

関戸古戦場

  関戸の戦いは、元弘3年(1333年)5月16日に霞ノ関(現在の東京都多摩市 関戸)一帯で、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間 で行われた合戦。この戦いで新田軍は勝利を収め、鎌倉へと進撃しました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

武蔵国府跡

  武蔵国府は現在の府中市に奈良時代の初め頃から平安時代の中頃に かけて置かれ、武蔵国の政治・文化・経済の中心地として栄えていました。 大國魂神社境内及びその東側の地域に武蔵国府があったそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大國魂神社

  東京都府中市に鎮座し、大國魂大神(大国主命と同神とされる)を 主祭神と する神社。景行天皇41年の創建と伝えられ、源頼朝が妻の安産祈願をし、 また源頼義と義家が奥州に向かう際に戦勝祈願をした等の伝承があります。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

馬場大門のケヤキ並木

  東京都府中市にある日本国指定天然記念物の並木で、大國魂神社の 参道にもなっています。この並木の起源については、源頼義・義家父子 による寄進、また徳川家康による寄進など、諸説あるようです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

源義家像

  東京都府中市にある大國魂神社前のケヤキ並木の中に建つ源義家の像。 源義家は平安時代後期の武将で、伊予守・源頼義の長男。後に鎌倉幕府 を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たります。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

胴合橋

  長野市篠ノ井杵淵の信州そば蔵長野店に隣接してある小さな橋。 第4次 川中島の戦いで、武田信玄の軍師である山本勘助は戦死。その戦死した 山本勘助の首と胴を合わせたという伝説の場所です。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

青木神社(陣場河原八幡宮)跡

  永禄4年(1561年)9月の第4次川中島の戦い・八幡原の激戦で、前半不利 だった武田軍が後半には攻勢に転じ、上杉軍は劣勢となり犀川を渡って撤退。 戦いの終了後、武田軍は、この神社で勝鬨をあげたと伝わっています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

茶臼山本陣跡

  永禄4年(1561年)8月、上杉謙信は1万3千の兵を率いて妻女山に陣をとり、 それに対し、武田信玄は甲府から進軍、この茶臼山に本陣を構えたそうです。 10日後、信玄は茶臼山を降りて海津城に入り、両軍はにらみ合いました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

松本城

  永正年間に小笠原氏が林城の支城として築城したのが始まりとのこと。 天守閣の建造年には諸説ありますが、1591年~1615年の間だそう です。この天守閣は現存12天守の一つで、国宝に指定されています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

箱根神社

  箱根の芦ノ湖畔にある神社で、湖の中にある朱塗りの鳥居が有名です。 ご祭神は、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメ、ヒコホホデノミコトの三神。 古くから、交通安全・心願成就・開運厄除の神様として信仰されています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

箱根関所

  江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、相模国 足柄下郡箱根(現箱根町箱根)の芦ノ湖湖畔に設置された東海道の関所で、 「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られていました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

ヘボン博士邸跡

  横浜の山下公園の近く、横浜中税務署の前にあるヘボン博士邸跡の碑。 ヘボン博士は幕末に訪日し、横浜で医療活動を行って横浜の近代医学の 基礎を築き、また、ヘボン式ローマ字を考案したことで知られています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

旧安田庭園

  東京都墨田区にある潮入り回遊式庭園として整備された大名庭園。江戸 時代には、大名の庭園でしたが、明治22年(1889年)、安田財閥の祖で ある安田善次郎が所有することになり、現在は墨田区が管理しています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

水戸徳川邸跡

  東京を流れる隅田川の両岸にある隅田公園の墨田区側に碑があります。こ こは江戸時代、水戸徳川家の下屋敷・小梅別邸が置かれたところで、幕末に 水戸学者、藤田東湖が蟄居の日々を送ったのもこの屋敷内とのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

唯念名号碑

  唯念(1789年-1880年)は相模・伊豆・駿河にかけて各地に念仏講を組織 し、阿弥陀如来の名号を唱えることによる功徳を説いて、多数の信者を指導し ました。小田原市曽我別所、県道72号線沿いに名号碑が建てられています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大山道

  大山道は主に江戸時代に関東各地からの大山阿夫利神社への参詣者が 通った古道の総称。その中の一つ、六本松通り大山道が現在の小田原市 から曽我別所を通って大山へと向かって伸びていました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

二宮尊徳遺髪塚

  二宮尊徳の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛で、尊徳の指導 により再興された川久保家は、民次郎が跡を継ぐことになったそうです。 民次 郎は尊徳の死去にあたり、遺髪を得て曽我に持ち帰ったとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

曽我別所屋敷跡

  曽我兄弟が工藤祐経を討つために富士の裾野に向かおうとする時、母の 満江御前のもとを訪れ、今生の別れに母の満江御前から小袖を乞い受け たと伝わる曽我氏の下屋敷跡。現在、曽我別所公民館のあるところです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

満江御前墓

  満江御前は日本三大仇討ちの一つとして名高い曽我兄弟の母。建久6年に 夫の祐信と共に出家し、曽我別所に大御堂を建て、兄弟の霊を供養してきま したが、正治元年、奇しくも兄弟の七回忌の5月28日に没したとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

法蓮寺

  小田原市曽我別所にある、慶長19年(1614年)創建の日蓮宗のお寺。. 曽我祐信夫妻は建久6年(1195年)に出家し、曽我別所に大御堂を建てて 曽我兄弟の菩提を弔い、その大御堂が後に法蓮寺に改まったとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

北条常盤邸跡

  鎌倉市常盤にある遺跡で、鎌倉幕府第7代執権北条政村の別荘として建 てられたとされ、敷地内には門柱の跡ややぐら、法華堂跡が残されていま す。また、常盤の名は政村の号、常盤院覚崇に由来しているとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

妙光寺

  横浜市瀬谷区上瀬谷町にある日蓮宗のお寺で瀬谷八福神の一つ。元は 天台宗のお寺でしたが、弘安5年(1282年)、池上に行く途上の日蓮が この寺に宿泊し、時の住職が教化を受け日蓮宗に改宗したそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

和田塚

  建保元年(1213年)5月、和田義盛は北条氏に対して挙兵しましたが敗死。 和田氏は滅亡し三浦氏の権威も失墜、北条氏の勢力が強化されていきまし た。この付近からは多数の人骨が発見され、「和田塚」と呼ばれています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

稲村ケ崎

  元弘3年(1333年)の新田義貞の鎌倉攻めの舞台となった場所として有名。 国道134号線は昭和になって開削されたもので、当時は通行不可。現在は、 鎌倉海浜公園として市民に親しまれています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

太田道灌像(日暮里)

  東京都荒川区のJR日暮里駅前にある、狩り装束で馬を駆り弓を携えた姿 の太田道灌の像。「山吹の一枝」を契機に回天の如く歌道に励んだ、という ことから「山吹伝説」に因み、この像は「回転一枝」と名付けられたそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

徳川慶喜墓

  徳川慶喜は徳川幕府最後の第15代将軍。幕末の動乱期に大政奉還や 江戸城無血開城を行いました。維新後は従一位勲一等公爵、貴族院議 員となり、大正2年(1913年)11月22日、77歳で亡くなりました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

彰義隊の墓

  慶応4年(1868年)、江戸城無血開城後も彰義隊が上野寛永寺に集結。 同5月15日、新政府軍と彰義隊との間で戦闘がおこり、彰義隊は壊滅。 彰義隊の戦死者は105名、新政府軍の戦死者は56名といわれています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

旧岩崎邸庭園

  東京都台東区池之端一丁目、上野公園不忍池の近くにある都立庭園。 三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備した もので、園内の歴史的建造物は、国の重要文化財に指定されています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

徳川慶喜終焉の地

徳川慶喜は、明治30年(1897年)、隠棲していた駿府から東京に戻り、同 34年(1901年)、現在の国際仏教学大学院大学のある地に移り住みました。 大正2年(1913年)11月22日、急性肺炎のためこの地で76歳で没しました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

清河八郎墓

  清河八郎は浪士組を結成して新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を 率いて明治維新の火付け役となった庄内藩出身の幕末の志士。文久3年 (1863年)4月13日に麻布赤羽橋で暗殺され、伝通院に葬られました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

千姫墓

  千姫は徳川秀忠と江の間に長女として生まれ、豊臣秀頼の正室となりまし たが、大坂の陣で救出された後には、本多忠刻の正室となりました。晩年は、 天樹院と称して江戸で暮らし、寛文6年(1666年)、70歳で死去しました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

於大の方墓

  於大の方は松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称しました。 慶長7年(1602年)に、現在の京都市伏見区の山城伏見城で75歳で死去し、 遺骨は現在の東京都文京区小石川の伝通院に埋葬されました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

小石川後楽園

  東京都文京区にある都立庭園。水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた 築山泉水回遊式の日本庭園で、国の特別史跡及び特別名勝。徳川光圀 が明の遺臣朱舜水の選名によって「後楽園」と命名して完成させました。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

三ツ木城跡

  埼玉県桶川市にある城跡。城の居住者は、足立遠元、あるいは石井丹後守、 等の諸説があるとのことです。現在は城山公園として市民プールやテニスコ ート等を整備した公園になっています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more