英一番館跡

  横浜が開港したのは安政6年6月2日(1859年7月1日)のことで、開港と 同時に多くの外国商社が横浜に進出してきました。ここは居留地1番地で、 英国商社ジャーディン・マセソン商会横浜支店が店舗を構えたところです。  
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小諸城

  武田信玄の東信州経営のために縄張りされた城で、酔月城、穴城、白鶴城、 鍋蓋城、などの別名を持ち、日本100名城の28番に選定されています。 現在は、市営公園小諸城祉懐古園として整備されています。  
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主馬盛久頸座

  主馬盛久は平家の武将で、壇ノ浦で平家が滅びた後、京で捕えられました。 その後、鎌倉へ送られてきて、この地で処刑されそうになりましたが、その寸 前に、役人の刀が折れ、許されたと伝わっています。  
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極楽寺坂

  極楽寺方面から由比ヶ浜に通じる切通しで、鎌倉七口の一つ。鎌倉時代の 後半に、極楽寺の実質的な開祖である真言律宗の僧・忍性が最初に切り開 いたとのこと。新田義貞の鎌倉攻めの際には、主戦場の一つとなりました。  
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浄瀧寺

  横浜市神奈川区幸ケ谷にある日蓮宗のお寺で、山号は妙湖山。日蓮聖人 に感服した妙湖尼が、自分の庵を法華経の道場にしたのが始まりとのこと。 幕末の横浜開港時には、イギリス領事館に充てられました。  
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成仏寺

  横浜市神奈川区にある浄土宗の寺院で、山号は正覚山、院号は法雨院。 横浜開港の際に、本堂が外国人宣教師の宿舎になり、ヘボン博士、宣教 師のブラウンやバラーなどが滞在したそうです。  
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渋沢栄一像(常盤橋公園)

  日本銀行のすぐ近く、東京都千代田の常盤橋公園内にある渋沢栄一 の像。渋沢栄一は、第一国立銀行や東京証券取引所等の多種多様な 企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」とも云われています。  
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近代街路樹発祥の地

街の景観を美しくするために、慶應3年(1867年)に導入された横浜の馬車道の街路樹が、日本近代街路樹の発祥のことです。当時は、手入れのしやすい柳と松が植えられたそうです。    
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道了堂跡

東京都八王子市鑓水の現在の大塚山公園内にある絹の道(神奈川往還)に関連する文化財。明治7年(1874年)に鑓水商人が浅草花川戸から道了尊を勧請したことが始まりとのことですが、現在はその跡があるのみです。    
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大塚山公園

かつての絹の道(神奈川往還)の中継地点であった所を八王子市が平成2年(1990年)に整備した公園。公園内には道了堂跡をはじめ、石段や石灯籠などが残っていて、また、公園の入り口には絹の道の碑が建てられています。    
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絹の道

幕末から明治時代にかけて、八王子から横浜まで生糸をや絹織物が運んだ裏街道として繁栄した道。御殿橋から「絹の道」碑までの約1.5 kmの区間は八王子市の史跡に指定されており、「歴史の道百選」にも選ばれています。
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絹の道資料館

東京都八王子市鑓水にある絹の道に関する資料館。この資料館は鑓水の生糸商で「石垣大尽」と呼ばれた八木下要右衛門家屋敷跡に、木造の門や入母屋屋根を持つ建物をつくり、平成2年(1990年)3月に開館しました。
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弘前病院

前身は明治30年に設立された弘前衛戍病院。弘前病院の広報誌72号によると、八甲田山雪中行軍で遭難し救助された山口少佐が運び込まれたのは、この病院だそうです。
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三内丸山遺跡

青森県青森市郊外にある縄文時代の大規模な遺跡。建物群跡から、最盛期の縄文時代中期後半には約500人の居住者がいたとも推定され、縄文時代の文化がかなり進んだものであったことを示しています。
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弘前城

江戸時代に建造された天守や櫓等が現存し、国の史跡に指定されている城。江戸時代には、弘前藩4万7千石の居城として津軽地方の中心でした。現在は弘前公園として整備され、桜の名所として全国的に有名です。
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津軽為信像

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、陸奥弘前藩初代藩主。津軽為信が鷹岡(現在の弘前)に築城を開始して、それが弘前の街の始まり。津軽氏が代々弘前藩の藩主となり、明治維新まで続きました。
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第八師団司令部跡

第八師団は旧日本帝国陸軍の師団の一つで、弘前に司令部がありました。日露戦争に備えての雪中訓練を実施して遭難したのが八甲田山雪中行軍。司令部の跡地は現在、弘前大学農学生命科学部になっています。
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義経寺

青森県外ヶ浜町字三厩にある浄土宗のお寺で、源義経が北海道に落ち延びていく途中に立ち寄ったという伝説の地です。地名の三厩というのも、義経北行伝説にまつわるものです。  
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厩石

伝説によると、平泉を脱出後、蝦夷を目指してこの地に来た源義経は3頭の龍馬に助けられ、無事に蝦夷に渡ることができたとのことです。その3頭の龍馬の厩がこの岩で、三厩という地名の由来とも云われています。
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平沢第1露営地

青森歩兵第5連隊が駐屯地を出発したのが、明治35年(1902年)1月23日。当初の予定では1泊2日の行軍で、この日の宿泊予定地は田代温泉。しかし、悪化した天候のために行軍は難航し、やむなくこの地で露営することになりました。
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鳴沢第2露営地

八甲田山雪中行軍に挑んだ青森歩兵第5連隊の2日目の露営地。第1露営地からは直線にして僅か700m移動しただけの位置で、食料も凍結していて食べられず、ここで多くの将兵が凍死したとのことです。
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後藤伍長像

後藤房之助は宮城県出身で青森第5連隊の伍長として雪中行軍に参加。遭難4日目の1月27日午前10時頃、仮死状態で発見されました。この像は全国からの将校の寄付により制作されたものとのことです。
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中の森第3露営地跡

青森歩兵第5連隊が駐屯地を出発したのが、明治35年(1902年)1月23日午前6時55分。八甲田山に入って3日目の1月25日の露営地がこの付近。この時すでに、死者・行方不明者合わせて70名以上になっていたそうです。
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後藤伍長発見の地

青森歩兵第5連隊が駐屯地を出発したのが明治35年1月23日の早朝。その後、同連隊は雪の八甲田山中を彷徨して遭難。1月27日10時半頃、雪中に佇立している後藤伍長がここで発見されました。
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田茂木野

田茂木野は八甲田山に向かう途中にある村で、八甲田山雪中行軍を実施した青森歩兵第5連隊も通過したところです。遭難事故発生後、此処には遺体安置所が設置されました。
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幸畑陸軍墓地

八甲田山雪中行軍で遭難死した青森第5連隊の将兵199名の眠る墓地。明治8年(1875年)にこの地に陸軍墓地が造営され、青森第5連隊も八甲田山に向かう途中で、この墓地にお参りをしたそうです。
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青森歩兵第五連隊正門

青森歩兵第5連隊は、明治11年(1878年)5月1日にこの地に創立。日露戦争に備えての耐寒訓練を実施し、明治35年(1902年)1月23日午前6時55分にこの営門から八甲田山へと向かいました。そして深い雪の中で遭難して多くの犠牲者が出ました。
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武蔵坊弁慶之墓

武蔵坊弁慶は義経を守って薙刀を振るって戦い、無数の敵の矢を受けて立ったまま死んだとされ、「弁慶の立往生」として後世に語り継がれています。弁慶の墓とされるものが、平泉の中尊寺月見坂の上り口にあります。
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芭蕉句碑(高館)

源義経自害の地と伝えられる高館に建つ松尾芭蕉の句碑。     「 夏草や兵どもが夢の跡 」平泉の栄華や義経に思いを馳せ、芭蕉がこの地で詠んだと云われています。
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高館義経堂

源義経は文治5年閏4月30日(1189年6月15日)に、源頼朝の要求に屈した藤原泰衡に襲撃され、妻(郷御前)・子と共に自害したとのことです。館の跡には天和3年(1683年)に、義経堂と義経の木像が建立されました。
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柳御所跡

奥州藤原氏の政庁・平泉館跡と推定される平安時代末期の遺跡。奥州藤原氏初代清衡が豊田館から平泉に移ってきて居館をかまえた所で、3代秀衡が政庁・平泉館とするため再整備を行ったとされる場所です。    
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伽羅御所跡

岩手県平泉町平泉伽羅楽にあった奥州藤原氏の居館跡。奥州藤原氏の居館であった柳之御所が政庁・平泉館として大改修され、秀衡が柳之御所の南西に新たに建築したのが伽羅御所だそうです。
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毛越寺

岩手県の平泉にある、開山は慈覚大師と伝わる天台宗の寺院。当時は中尊寺を凌ぐ規模だったとのことですが、現在は庭園が残るのみ。国の特別史跡で、庭園は「毛越寺庭園」として特別名勝に指定されています。   
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多賀城跡

神亀元年(724年)、大野東人による築城と伝えられています。陸奥国府や鎮守府が置かれ、当時の東北地方の政治・軍事等の中心地で、平城宮跡、大宰府跡とともに、日本三大史跡に数えられています。
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滝山城跡

永正18年(1521年)、山之内上杉家の大石定重による築城と伝わる城ですが、川越夜戦により北条氏が武蔵国を掌握すると、北条氏の支城になりました。その後、この地域の北条氏の軍事拠点は、八王子城へと移されました。   
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戸定邸

千葉県松戸市松戸にある水戸藩最後の藩主、徳川昭武が造った別邸。国の重要文化財で、重要文化財指定名称は旧徳川家住宅松戸戸定邸。現在は松戸市に寄贈され、「戸定が丘歴史公園」として整備されています。
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常楽寺(川越)

埼玉県川越市にある時宗のお寺で、平安時代末期から南北朝時代にかけて、武蔵国で最大勢力を誇った河越氏の河越館の跡地の一角にあります。長享の乱の際には、上杉顕定が河越城攻略の陣を置いたところだそうです。
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河越館跡史跡公園

河越館跡は、平安時代から南北朝時代まで、武蔵国の中で有数の勢力を誇った武士・河越氏の居館跡で、昭和59年(1984年)に国指定遺跡となり、平成21(2009年)には、川越市管理の史跡公園としてオープンいたしました。
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東明寺

埼玉県川越市志多町にある13世紀に一遍上人開基の時宗の古刹。天文15年(1546年)4月20日、「東明寺口合戦」とも呼ばれる河越夜戦の激戦が行われた場所で、境内には「河越夜戦跡」の石碑が建てられています。
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柏原城山砦跡

埼玉県狭山市、入間川の西側の丘陵の上にある城跡。この城山砦は川越夜戦の時に、上杉憲政が築城したそうです。川越夜戦では上杉連合軍は敗れ、小田原北条氏が武蔵国を手中にしました。
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三ツ木原古戦場

天文6年(1537年)、北条氏綱が河越城を手に入れようと侵攻してきた際、迎撃に出てきた河越城の上杉朝定と、両軍入り乱れての戦いがあった場所。また、新田義貞の鎌倉攻めの時にも、ここで合戦があったと伝わっています。
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北条氏照墓

北条氏康の3男で初めは武蔵滝山城城主、後に八王子城城主。天正18年(1590年)の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、自身は小田原城に籠もりましたが、小田原開城後、兄・氏政と共に切腹(自害)を命じられました。    
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八王子城

北条氏康の三男である北条氏照が滝山城に代わる城として築城した城。小田原北条氏の有力な支城でしたが、天正18年(1590年)の小田原征伐の際、豊臣軍に攻められて落城、その後廃城になりました。
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勝竜寺城

現在の京都府長岡市に南北朝時代から江戸時代初期に存在していた城。明智光秀の三女、玉が細川忠興に輿入れをした城であり、また、山崎の合戦では明智光秀が本拠とした城として知られています。
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山崎合戦古戦場碑

本能寺の変のあと、天正10年(1582年)6月13日に、羽柴秀吉軍と明智光秀軍が摂津国と山城国の境に位置する山崎を舞台に戦ったのが山崎の戦い。大山崎町立大山崎中学校の正門横に石碑が建てられています。
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大山崎瓦窯跡

京都府乙訓郡大山崎町の観音寺(山崎聖天)の麓にある瓦窯跡。平安宮・京の造営を支えたものと考えられ、ここで製作された瓦は平安宮朝堂院をはじめ、嵯峨院、河陽離宮に供給されたとのことです。
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山崎合戦之地碑

天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の直後の6月13日、備中高松城から引き返してきた羽柴秀吉軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が、摂津国と山城国の境に位置する山崎において激突したのが山崎の戦いです。
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十七烈士の墓

元治元年(1864年)7月、長州藩が軍勢を率いて入京して禁門の変が勃発。長州藩が敗れて西へ向けて敗走する際、幕府軍の追撃を防ぐために天王山に立て籠もったのが真木和泉率いる17士で、全員自害したとのことです。    
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天王山

京都府乙訓郡大山崎町にある山で、山崎天王社があることが山名の由来。天正10年(1582年)6月の、明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いで、この山の争奪戦が起こり、「天下分け目の天王山」と表現されました。
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宝積寺

京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派のお寺。天正10年(1582年)の山崎の戦いの際には秀吉の本陣が置かれ、また、元治元年(1864年)には、禁門の変で尊皇攘夷派の陣地が置かれた所です。
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