テーマ:墓所

興意親王墓

興意親王は正親町天皇の孫にあたり誠仁親王の第5王子となる安土桃山・江戸前期の皇族。慶長19年(1614年)、豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文に書くべき大工頭の名を入れなかったという江戸幕府の嫌疑を受け蟄居。元和6年(1620年)9月、江戸へ下向し江戸滞在中に急死したとのことです。
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大石内蔵助墓

大石良雄、通称大石内蔵助は播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老。元禄15年(1702年)12月15日未明、赤穂浪士を率いて吉良邸討ち入りを果たし、翌年2月4日、細川邸で切腹、主君と同じ高輪の泉岳寺に葬られました。
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浅野内匠頭長矩墓

浅野内匠頭長矩は播州赤穂藩藩主。元禄14年(1701年)3月14日、 殿中松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかり即日切腹。ここから赤穂義士の物語が始まりました。浅野内匠頭の墓は浅野家と所縁のあった東京芝高輪の泉岳寺にあります。
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北条義時墓跡

鎌倉の源頼朝の墓から程近く、大江広元などの墓の下にある広場の部分。ここにはかつて、鎌倉幕府2代執権北条義時の墓があった法華堂跡とされているところで、1辺が8.4mの正方形の形をした「三間堂」があったそうです。
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稲津祇空墓

稲津祇空は江戸時代前期の俳人。当初談林派俳壇で活動しましたが、 後に松尾芭蕉、宗祇の隠棲的な俳風を志向し、後世法師風と称される一 派を築きました。晩年は早雲寺に石霜庵を構え、早雲寺に墓があります。
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宗祇墓(早雲寺)

宗祇は室町時代の連歌師。和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに連歌を代 表する漂泊の人で、文亀2年(1502年)旅の途中、箱根湯本で没しました。 墓は駿河桃園定輪寺にありますが、早雲寺には宗祇の供養塔があります。
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今大路道三墓

今大路道三は安土桃山時代・江戸時代の医師。寛永3年(1626年)、2代 将軍徳川秀忠に従って上洛中に、崇源院の治療のために急遽江戸へ戻り ましたが、途上の箱根山中で自分が発病して急死し早雲寺に葬られました。
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阿仏尼墓

鎌倉市の扇ガ谷、英勝寺の先にあるやぐらが阿仏尼の墓と伝わっています。 阿仏尼は弘安2年(1279年)、相続問題を幕府に訴えるため鎌倉へ下り、 このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが「十六夜日記」です。
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人丸塚

京都市中京区の壬生寺の境内にある、万葉集で知られる歌人・柿本人麻呂 の灰塚と伝えられている塚。「人麻呂」が「人丸」となり、「火止る」に通じることから火除けのご利益があるとのことです。
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紫式部墓

紫式部は「源氏物語」の作者と考えられている平安時代中期の女性作家。 紫式部の墓とされる墓は小野篁の墓とされるものに隣接してあり、この地は 淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年に住んだと伝わる処の近くだそうです。
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小野篁墓

小野篁は平安時代前期の公卿・文人で、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説があります。 小野篁は閻魔大王を説得して、紫式部の地獄落ちを阻んだとのことです。
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最上義光公御霊屋

最上義光は最上氏第11代当主で、伊達政宗の伯父にあたる戦国期の武将。 関ヶ原の戦いでは東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させました。 最上義光と家臣等10名の位牌が、立石寺(山寺)に安置されています。
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藤原仲能墓

藤原仲能は鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王の命を受け、七堂伽藍を有する海蔵寺を創建した人物。死後、道智禅師と云われ、位牌は海蔵寺にありますが墓はこの場所(現在は源氏山公園)にあったそうです。
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鼠小僧次郎吉墓

鼠小僧次郎吉は江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯で、 盗んだ金を貧しい庶民に分け与えたという義賊伝説があります。しかし、 終には捕縛されて小塚原刑場で処刑。墓は両国回向院にあります。
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日野俊基墓

日野俊基は鎌倉時代の末期に討幕運動で活発に活動した廷臣。正中の変で一度捕えられましたが、その時は処罰は免れました。しかし、元弘の変で再度捕縛され、鎌倉の 葛原岡で斬首となりました。
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足利義氏(第5代古河公方)墓

足利義氏は第5代古河公方で、同名の足利義氏(足利家第3代当主)から数えて14代目の子孫。 父は第4代古河公方の足利晴氏でしたが、母は北条氏綱の娘の芳春院、 正室は北条氏康の娘の浄光院殿で、後北条氏の影響を大きく受けた古河公方でした。
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首供養塚

静岡県と神奈川県の県境にある足柄峠にある首供養塚。 ここは以前、足柄の関所があった所で、凶悪な盗賊や関所破りをした人達 を処刑し「さらし首」にした場所で、のちに供養塔を建て弔ったとのことです。
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内藤塚

群馬県高崎市箕郷町の善龍寺の南約200mの桑畑の中にある塚。 内藤修理が天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死した後、子昌月が父の遺殻をここに葬り、昌月も天正16年(1588年)1月に逝去し、修理の側に葬られたと伝わっています。
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虎姫観音堂

群馬県庁の西側、利根川河畔にある六角形のお堂。厩橋城で酒井雅楽頭の身の回りの世話をしていたお虎という美しい娘が他の女中の嫉妬のために無残な死を遂げ、その霊を慰めるために建てられたとのことです。
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於大の方墓

於大の方は松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称しました。慶長7年(1602年)に、現在の京都市伏見区の山城伏見城で75歳で死去し、遺骨は現在の東京都文京区小石川の伝通院に埋葬されました。
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日ノ岡宝塔

京都府京都市山科区日ノ岡、三条通沿いにある処刑された罪人の供養塔。粟田口には京都遷都から明治にかけて極刑場があり、そこで処刑された罪人は一万五千人にものぼり、昭和14年(1939年)に供養塔が建立されたそうです。
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浄菩提院塚陵墓参考地

京都市伏見区竹田東にある昇子内親王のものと推定されている陵墓。昇子内親王は後鳥羽天皇の第一皇女として生まれ、曽祖叔母の八条院の猶子として育てられましたが、建暦元年(1211年)に17歳で薨去したそうです。
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伏見桃山陵

明治45年(1912年)7月30日、明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御し、東京の帝國陸軍練兵場で大喪儀が執り行なわれ9月14日に埋葬されました。陵の敷地は豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地だそうです。
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都々一坊扇歌堂

常陸国分寺境内にある「都々逸節」の創始者、都々一坊扇歌の堂。都々一坊扇歌は、文化元年(1804年)に常陸太田市磯部に生まれ、嘉永5年(1852年)に当地石岡で、48歳で没したとのことです。
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青木昆陽墓

青木昆陽は江戸時代中期に薩摩芋の普及を図り、天明の大飢饉では多くの人々の命を救いました。後に「甘藷先生」と称され、墓は東京都目黒区下目黒の瀧泉寺飛び地境内の目黒不動墓地にあります。
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権八・小柴の比翼塚

東京都目黒区の目黒不動尊瀧泉寺の門前にある比翼塚。処刑された愛人平井(白井)権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫の悲話は「後追い心中」として講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画などで有名です。
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仙洞院墓

仙洞院は名は綾と伝わる上杉謙信の姉で上杉景勝の母。次男の景勝が実子のなかった謙信の養子となって上杉家の跡を継ぎ、晩年は上杉氏の移封とともに会津や米沢へと移っていきました。お墓は林泉寺にあります。
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甲州婦人菊姫墓

菊姫は武田信玄の五女で上杉景勝の正室であった女性。武田勝頼と上杉景勝が同盟を結んだときに同盟の証として上杉景勝に嫁ぎ、上杉家中からも才色兼備の賢夫人として敬愛されていたと伝わっています。
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直江兼続墓

山形県米沢市の林泉寺境内にある上杉家家老、直江兼続の墓。兼続の墓石と並んで妻の墓石がたち、夫と妻の墓石が共に同じ大きさというのは珍しいそうで、直江夫婦は仲睦まじかったとの伝承もあるそうです。
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武田信清の墓

武田信清は武田信玄の七男で、子供の頃法善寺に入り玄竜と号しました。後に兄・勝頼の命令で還俗しましたが、武田氏滅亡後、越後国の上杉景勝の正室であった異母姉・菊姫を頼って上杉氏に寄寓し、武田姓に復帰しました。墓は米沢市の林泉寺にあります。
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