テーマ:墓所

虎姫観音堂

群馬県庁の西側、利根川河畔にある六角形のお堂。厩橋城で酒井雅楽頭の身の回りの世話をしていたお虎という美しい娘が他の女中の嫉妬のために無残な死を遂げ、その霊を慰めるために建てられたとのことです。
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於大の方墓

  於大の方は松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称しました。 慶長7年(1602年)に、現在の京都市伏見区の山城伏見城で75歳で死去し、 遺骨は現在の東京都文京区小石川の伝通院に埋葬されました。  
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日ノ岡宝塔

  京都府京都市山科区日ノ岡、三条通沿いにある処刑された罪人の供養塔。 粟田口には京都遷都から明治にかけて極刑場があり、そこで処刑された 罪人は一万五千人にものぼり、昭和14年に供養塔が建立されたそうです。  
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浄菩提院塚陵墓参考地

  京都市伏見区竹田東にある昇子内親王のものと推定されている陵墓。昇子 内親王は、後鳥羽天皇の第一皇女として生まれ、曽祖叔母の八条院の猶子 として育てられましたが、建暦元年(1211年)17歳で薨去したそうです。  
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伏見桃山陵

  明治45年(1912年)7月30日、明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御し、 東京の帝國陸軍練兵場で大喪儀が執り行なわれ9月14日に埋葬されました。 陵の敷地は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地だそうです。  
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都々一坊扇歌堂

  常陸国分寺境内にある、「都々逸節」の創始者、都々一坊扇歌の堂。 都々一坊扇歌は、文化元年(1804年)に常陸太田市磯部に生まれ、 嘉永5年(1852年)に当地石岡で、48歳で没したとのことです。  
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青木昆陽墓

  青木昆陽は江戸時代中期に薩摩芋の普及を図り、天明の大飢饉では多くの 人々の命を救いました。後に「甘藷先生」と称され、墓は東京都目黒区下目黒 の瀧泉寺飛び地境内の目黒不動墓地にあります。  
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権八・小柴の比翼塚

  東京都目黒区の目黒不動尊瀧泉寺の門前にある比翼塚。処刑された愛人 平井(白井)権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫の悲話は「後追い心中」 として講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画などで有名です。  
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仙洞院墓

  仙洞院は名は綾と伝わり、上杉謙信の姉で上杉景勝の母。次男の景勝が、 実子のなかった謙信の養子となって上杉家の跡を継ぎ、晩年は、上杉氏の 移封とともに会津や米沢へと移っていきました。  
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甲州婦人菊姫墓

  菊姫は武田信玄の五女で、上杉景勝の正室であった女性。武田勝頼と上杉 景勝が同盟を結んだときに、同盟の証として上杉景勝に嫁ぎ、上杉家中から も、才色兼備の賢夫人として敬愛されていたと伝わっています。  
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直江兼続墓

  山形県米沢市の林泉寺境内にある、上杉家家老、直江兼続の墓。兼続の 墓石と並んで妻の墓石がたち、夫と妻の墓石が共に同じ大きさというのは 珍しいそうで、直江夫婦は仲睦まじかったとの伝承もあるそうです。  
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武田信清の墓

  武田信清は、武田信玄の七男で、子供の頃法善寺に入り、玄竜と号しました。 後に兄・勝頼の命令で還俗しましたが、武田氏滅亡後、越後国の上杉景勝の 正室であった異母姉・菊姫を頼って上杉氏に寄寓し、武田姓に復帰しました。  
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北条泰時墓

  鎌倉市大船の常楽寺の境内にある、鎌倉幕府第3代執権北条泰時の墓。 北条泰時は、鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男で、鎌倉幕府北条家 の中興の祖として、御成敗式目を制定したことで有名です。  
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新田義貞首塚(小田原)

  新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338年)、越前国藤島で討死。 義貞の家臣宇都宮泰藤は、晒された義貞の首を奪い返して上野国に向かう 途中で病となり、止む無く義貞の首をこの地に埋葬したとのことです。  
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理慶尼墓

  理慶尼は武田晴信(武田信玄)の従妹に当たる戦国時代の女性。新府城 から落ち延びてきた武田勝頼一行が大善寺に立寄った際の様子を物語調 に「理慶尼記」(武田滅亡記、大善寺蔵)として記したそうです。  
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足利尊氏墓

  足利尊氏は、室町幕府の初代征夷大将軍で、足利将軍家の祖。 鎌倉公方足利基氏が、父尊氏の菩提を弔うために建立したと伝えられる、 鎌倉の長寿寺境内に、足利尊氏の遺髪を埋めたと伝わる五輪塔があります。  
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大江広元墓

  源頼朝の墓のすぐ近くの斜面にある、大江広元の墓と伝わるやぐらですが、 長州藩が江戸時代につくったもので、広元の墓とする根拠はないそうです。 大江広元は初代政所別当を務め、因幡毛利氏の祖とも云われています。  
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毛利季光墓

  鎌倉の源頼朝の墓の裏手の山腹に並ぶ、3つのやぐらの中の一つ。 毛利季光は、鎌倉幕府の政所初代別当を務めた大江広元の4男で、父の 所領のうち相模国毛利庄(厚木市)を相続し、毛利氏の祖となった人物です。  
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玉縄首塚

  大永6年(1526年)に安房里見氏の鎌倉攻めの際に応戦し戦死した、 渡内福原氏や大船甘粕氏一族35名を供養した塚といわれています。 後世に六地蔵が祀られ、その傍らに由来を記した石碑が建てられています。  
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木曽家代々之墓

  興禅寺は長野県木曽郡木曽町にある臨済宗妙心寺派のお寺で、 木曽義仲 の追善供養のため、木曾氏が創建したと伝わっています。興禅寺の境内には 木曽家代々之墓があります。  
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平塚の塚

  桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子が都より東国へ下向の途上、 相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなったとのこと。 土地の人々は遺体を塚を築いて葬り、これが「平塚」の由来となったそうです。  
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板割浅太郎墓

  板割浅太郎は、国定忠治の子分で、自分の叔父の中島勘助とその息子 勘太郎を殺しましたが、赤城山で忠治と別れた後、仏門に入ったとのこと。 後に遊行寺の堂守となり、念仏三昧、中島親子の菩提を弔ったそうです。  
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即成院

  京都市東山区にある真言宗のお寺で、総本山泉涌寺山内にある塔頭。 那須与一縁の寺と云われ、「即成院縁起」では、与一が光明院(即成院)に 参詣して武運を祈願したとされていて、山内には那須与一の墓があります。  
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和泉式部墓

  和泉式部は平安時代中期の歌人で、「和泉式部日記」で知られています。 伝承によれば、和泉式部は木津の生まれであり、宮仕えの後、再び木津に 戻り余生を過ごしたといわれていて、京都府の木津川市にお墓があります。  
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北条義時墓跡

  鎌倉の源頼朝の墓から程近く、大江広元などの墓の下にある広場の部分。 ここにはかつて、鎌倉幕府2代執権北条義時の墓があった法華堂跡とされて いるところで、1辺が8.4mの正方形の形をした「三間堂」があったそうです。  
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泣塔

  泣塔は鎌倉市寺分、元JR東日本大船工場敷地脇に建つ宝篋印塔の通称。 新田義貞の鎌倉攻めの際の洲崎古戦場が付近にあり、塔の背後のやぐらに 葬られた戦死者を周辺の住民が弔う為に建てた塔と見られているそうです。  
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元使塚

  神奈川県藤沢市の常立寺にある、処刑された元からの国使を葬った塚。 高麗等の各国と同様に元への服従を求める国書を携えた杜世忠ら元の 国使ら5名が、建治元年(1275年)9月7日に処刑されここに葬られました。  
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山脇東洋解剖碑所在墓地

  杉田玄白の解剖の17年前の宝暦4年(1754年)、山脇東洋は六角大宮 にあった六角牢獄で刑死人の解剖を行い、解剖記録『臓志』を記しました。 その後も解剖を続け、14柱の供養碑が誓願寺の墓地に建てられたそうです。  
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希義公の土と石

  源希義は、源頼朝の同母弟で、兄頼朝が伊豆へ配流になったと同時に土佐国 に流罪となり、後に、兄頼朝の挙兵により、平家の追討軍に討ち取られました。 平成6年に頼朝と希義の墓の土と石を交換して兄弟の再会が果たされました。  
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大原重徳墓

  大原重徳は孝明天皇に重用され、文久2年(1862年)には勅使として 江戸で幕府に強く迫り朝廷の意向を幕府に飲ませた幕末・明治期の公家。 明治12年(1879年)に亡くなり、墓は東京の谷中霊園にあります。  
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