テーマ:東海道

江戸方見付(戸塚宿)

  戸塚宿は日本橋から数えて5番目、約42kmのところにあった宿場町。 見付とは宿場の出入り口のことで、江戸側の出入り口が江戸方見付。 戸塚宿は、ここから西の方に約2.3kmが宿場の範囲でした。  
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一里塚跡・上方見付跡(程ヶ谷宿)

  宿場の上方方面の出入り口にあたる上方見付は、程ヶ谷宿の場合には、 外川神社付近にあったとのことで、また此処には一里塚もあったそうです。 保土ヶ谷の一里塚は日本橋から8番目になるそうです。  
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旅籠屋跡(程ヶ谷宿)

  東海道の4番目の宿場町である程ヶ谷宿に残る、旅籠屋(本金子屋)跡。 寛政12年(1800年)の頃の程ヶ谷宿の旅籠屋の数は、37件でしたが、 天保13年(1842年)には、69軒になっていたそうです。  
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脇本陣跡(程ヶ谷宿)

  東海道の程ヶ谷宿には、本陣の他に脇本陣が3軒置かれていたそうです。 そのうちの一軒が水屋で、天保年間の規模は、建坪128坪(約423㎡)、 間口8間(約14.5m)、奥行16間(約29m)、室数14、だったそうです。  
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程ヶ谷宿本陣跡

  程ヶ谷宿は、東海道53次の4番目の、東海道では武蔵国最西端の宿場町。 保土ヶ谷本陣・苅部氏の祖先は、後北条氏の家臣の苅部豊前守康則で、 歴代当主が、苅部清兵衛を名乗ってきたとのことです。  
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問屋場跡(程ヶ谷宿)

  問屋場は、江戸と全国各地の間で送付される幕府の書状の継立や、参勤交代 の大名行列時などに周辺の村々から動員された人足・馬の差配を取り仕切る 場所で、街道に面した宿場の中心に設置されている場合が多かったようです。  
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助郷会所跡(程ヶ谷宿)

  助郷とは、江戸時代に、幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の 補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のこと言うとのことです。 初めは臨時の人馬徴発でしたが、後に助郷制度として恒常化したそうです。  
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寺尾稲荷道道標

横浜市鶴見区の鶴見神社の境内にある寺尾稲荷道道標の実物。現在の鶴見図書館の近くにある旧東海 道沿いの寺尾稲荷道道標は複製品で、 この実物が鶴見神社内に保存されています。
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信楽茶屋跡

信楽茶屋は東海道の立場として栄えた鶴見村の中で最も大きな茶店でした。 「江戸名所図絵」にも描かれ、竹皮に包んだ梅干が好評だったとのことです。 立場とは宿と宿との間の休憩場で、茶屋や売店が設けられていた処のことです。
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市場一里塚

お江戸日本橋から5番目、つまり5里のところにあった一里塚。一里塚には 榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるような配慮があったそうです。また、 その樹木の根は塚の崩壊を防ぐ役割も持っていたとのことです。
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問屋場跡(川崎宿)

京急川崎駅からすぐ近くの砂子一丁目交差点北東角に案内板があります。 宿場業務の監督をするのが問屋場で、川崎宿では約30人の問屋役人が 昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙をきわめたそうです。
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田中本陣跡

東海道53次の2番目の宿場街であった川崎宿の本陣のあった場所。 本陣家の主人である田中休愚は、本陣、名主、問屋の三役を兼務し、 六郷の渡船権を譲り受けて、宿場の財政を立て直したと伝わっています。
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里程標(梅屋敷)

旧東海道沿いの日本橋から約12.6km地点にあった里程標。 東京都大田区の聖蹟鎌田梅屋敷公園内に復元されたもので、「距日本橋三里八丁 蒲田村 山本屋」と彫られています。
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美浜通り

東京都大田区大森本町二丁目1番付近から大森東1丁目4番付近にかけ ての通り。第一京浜国道建設工事の際に旧東海道が拡張されましたが、 商店街の美原通を避けたため、今でも旧東海道の面影が残されています。
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鈴ヶ森刑場跡

鈴ヶ森刑場は現在の東京都品川区南大井、当時の東海道沿いの 江戸の入り口とも言える場所に、慶安4年(1651年)に開設された処刑場。 丸橋忠弥、平井権八、天一坊、八百屋お七等の人物がここで処刑されました。
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街道松の広場

旧東海道の旧品川宿の数カ所には街道松と呼ばれる松が植えられて いて、その中の一つ「品川宿の松」が「街道松の広場」に植えられています。 浜松市の有賀慶吉氏から寄贈された樹齢80年の黒松とのことです。
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品川橋

品川宿の中央にあり北品川宿と南品川宿を分けていた目黒川に架かる東海道の橋。 昔は北の天王祭(品川神社)と南の天王祭(荏原神社)の祭礼が同じ日で、 両社の神輿がこの橋で行きあった事から、行合橋とも言われたとのことです。
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品川宿本陣跡(聖蹟公園)

品川宿は東海道53次の第1番目の宿場街として発達した江戸4宿の1つ。 現在、本陣の跡地は公園となり、明治元年(1868年)に明治天皇の行幸の 際の行在所となったことに因み、 聖蹟公園と命名されています。
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箱根関所

  江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、相模国 足柄下郡箱根(現箱根町箱根)の芦ノ湖湖畔に設置された東海道の関所で、 「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られていました。  
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弥次喜多像

  お江戸は神田八丁堀の住人、栃面屋弥次郎兵衛と居候の喜多八が東海道 を江戸から上方へと旅をするのが『東海道中膝栗毛』。主人公の弥次さんと 喜多さんの像が、駿府城のお堀端にあります。  
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三条白川橋道標

  東海道の白川橋の袂にあるこの道標は、今から300年以上も前の延宝6年 (1678年)に建てられたもので、京都に残る最古の道標として価値が高く、 京都市登録史跡に指定されているそうです。  
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五条別れ道標

京都府京都市山科区の旧東海道沿いにある道標で、東海道を大津方面から来た旅人にとって、五条・伏見方面への近道を示す役割を担っていました。幕末の宝永4年(1707年)に建てられたものだそうです。
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江戸見附跡(藤沢宿)

旧東海道(現県道30号線)遊行寺の傍に藤沢宿の江戸見付がありました。見付とは宿場の出入り口のことで、江戸見付は江戸に近い方の見附のこと。東海道を下ってきた旅人は、ここから藤沢宿へと入っていきました。
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京見付跡(藤沢宿)

旧東海道(現県道43号線)、藤沢本町駅近くにある藤沢宿の京見付跡。見附は宿場の入口に設けられた見張所で、有事の際には関所としても機能し、石垣の土居を築き榎が植えてあったようです。
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四谷不動

藤沢市城南の東海道と大山道の分岐点に建てられていた道標。この辺りは四ツ谷辻と呼ばれていて、東海道と大山道の交差する場所として立場があり、茶屋が立ち並び賑わっていたとのことです。
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牡丹餅立場跡

茅ヶ崎市松林、国道1号線の菱沼歩道橋近くに案内板が建てられています。立場は、宿場と宿場の間に設けられた旅人などが休んだりする施設のことで、「牡丹餅立場」は牡丹餅が名物なのでそのように呼ばれてたとのことです。
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脇本陣跡(平塚宿)

脇本陣は本陣の補助的な役目をし、大名や公家の家来等の身分の高い人が利用しましたが、特権階級の宿泊のない時は農民や町民など庶民も泊まれたのが特徴とのことです。
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高麗山

平塚市と大磯町に跨る標高168mの山で、歌川広重の「東海道五十三次」の平塚宿にその姿が描かれたことで知られています。高麗山と泡垂山の山頂一帯は現在は公園となっていて、湘南平と呼ばれています。
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京方見附跡(平塚宿)

各宿場の両端には城門に似た「見附」が設けられており、一般的に京都側にあるものを「京方見附」とか「上方見附」「京口見附」と呼んでいました。国道1号線と旧東海道の合流点に、平塚宿の京方見附跡があります。
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平塚の塚

桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなったとのこと。土地の人々は遺体を塚を築いて葬り、これが「平塚」の由来となったそうです。
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