テーマ:岩手

武蔵坊弁慶立往生旧跡

武蔵坊弁慶は源義経に仕えた怪力無双の荒法師。衣川の戦いでは薙刀を振るって戦い、義経を守って堂の入口で雨の様な矢を受けて立ったまま死んだとされ、「弁慶の立往生」と後世に語り継がれています。
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中尊寺

岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山のお寺。 奥州藤原氏三代所縁の寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の 粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有し世界遺産に登録されています。
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金色堂

奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもので、 平安時代の浄土教建築の代表例であり国宝に指定されています。 須弥壇内には、奥州藤原氏3代の遺体と泰衡の首級が納められています。
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覆堂(金色堂)

中尊寺の金色堂は建立当初は屋外に建てられていましたが、正応元年 (1288年)に鎌倉将軍惟康親王の命令で堂を外側から包む形の覆堂が建設されました。現在、この覆堂は移築され重要文化財に指定されています。
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松尾芭蕉像

松尾芭蕉は俳聖として世界的にも知られる日本史上最高の俳諧師の一人。 弟子の河合曾良を伴い、江戸から東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した 紀行文「おくのほそ道」が有名です。
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芭蕉句碑(金色堂)

中尊寺金色堂の傍に、松尾芭蕉が詠んだ句の碑が建てられています。        「五月雨の 降り残してや 光堂」500年経っても光堂は色あせずに美しいままだ、と詠んだものだそうです。
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陣ケ岡歴史公園

古来より数々の武将が陣を布いてきた場所。前九年の役の戦後処理の際には源頼義が安倍貞任の首級に八寸釘を打ち込みこの地に晒し、その130年後、源頼朝は藤原泰衡の首級に八寸釘を打ち込んで同じ場所に晒したそうです。
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蜂神社

岩手県紫波郡紫波町に鎮座する神社で、厨川の戦いの際、勝利に導いた蜂を源義家が祀ったと伝わっています。 源義家は厨川の戦いで、蜂の巣を袋にとり、蜂を怒らせてから安倍貞任陣営に投げ込み、蜂が一斉に襲うと同時に攻めかかり勝利を収めたとのことです。
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天昌寺

盛岡市にある曹洞宗のお寺で、安倍氏滅亡の地、厨川柵の有力な擬定地。 陸奥国の豪族であった安倍一族が厨川柵に祀っていた祈願所が発祥とされ、 前九年の役で敗れた安倍氏一族郎党の菩提を弔っているとのことです。
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河崎の冊跡

天喜4年(1056年)、前九年の役の際、安倍貞任が源頼義軍を迎え撃つために兵を構えたのが「河崎の柵」。その場所がここであると擬定されています。 両者の戦いは「黄海の戦い」と呼ばれ、源頼義軍の大敗に終わりました。
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豊田館跡

奥州藤原氏の祖先・藤原経清が居館として築き、 経清の子、清衡が生まれ育った場所であると伝わる館跡。 清衡は康和元年(1099年)、豊田館から平泉へ移っていきました。
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鳥海柵跡

岩手県胆沢郡金ケ崎町西根にあった平安時代の豪族安倍氏の城柵跡。 前九年の役の際、安倍頼時は源頼義の勧誘に応じた安倍富忠と戦い、 流れ矢に当たり、この柵に帰ったもののその傷が故で落命したそうです。
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胆沢城跡

現在の岩手県奥州市にあった日本の古代城柵で国の史跡。 坂上田村麻呂が延暦21年(802年)に築き、永保3年(1083年)の 後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能したとのことです。
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巣伏古戦場

延暦8年(789)に起こった朝廷軍と阿弖流為率いる蝦夷軍との戦いの跡。 朝廷軍は兵数で圧倒的に劣る蝦夷軍に大惨敗して遠征は失敗しました。 現在は「巣伏古戦場跡公園」があり、そこに戦いの碑が建てられています。
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高野長英の碑

岩手県奥州市水沢にある高野長英記念館の側にある高野長英の碑。 高野長英は奥州市水沢の郷土の三偉人(高野長英、後藤新平、斎藤実) の一人として尊敬されています。
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後藤新平像

後藤新平は明治~大正期にかけての医師・官僚・政治家。 台湾総督府民生長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣等を歴任し、関東大震災後には東京の帝都復興計画を立案しました。
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高野長英旧宅

高野長英は水沢出身の江戸時代後期の医者であり蘭学者であった人物。 高野家は高野長英の母美也の実家で、長英が17歳で江戸に出るまでの 一時期を暮らしたところだそうです。
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陣場

延暦8年(789年)、紀古佐美が征夷の際に陣を構えた処。また、 天喜5年(1057年)の前九年の役では、安倍氏が布陣したと伝わる丘。 現在は、国民宿舎「サンホテル衣川荘」が建っています。
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中の営跡 古戸古戦場

延暦8年(789年)、紀古佐美の征夷にあたり衣川に設けられた営の跡。 また、前九年の役の際には、天喜5年(1057年)と康平5年(1062年) の2度にわたり合戦が行われた場所と伝わっています。
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一首坂

前九年の役の名場面、戦いの中、源義家と安倍貞任が歌を交わしたところ。   源 義家  「衣の館はほころびにけり」   安倍貞任  「年を経し糸の乱れの苦しさに」
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安倍館跡

前九年の役の一方の当事者である安倍頼時の館跡と伝わるところ。 安倍頼時の祖父である安倍忠頼の代からの安倍氏累代の居城で、その地勢から、舞鶴館、落合館とも云われているそうです。
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八日市場跡

衣川河畔の向館跡に隣接している奥州藤原氏時代の市場跡の一つ。 この他にもこの地域には、六日市場、七日市場などの地名が残っていて、平泉の市街地がこの付近にまで広がっていたことを偲ばせます。
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向館跡

平泉の隣接地である奥州市衣川区にある平安時代の館跡。 安倍一族の居館とされ、時頼に背いた富忠の館だったとのことです。 また、袈裟御前の母衣川殿の住居であったとも伝えられています。
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小松館跡

並木屋敷跡(衣川柵跡)から道沿い西方に少し行ったところにある館跡。 安倍貞任の叔父である僧良照の屋敷だったということです。 安倍氏の滅亡後は、室町時代に葛西氏の家臣砥石氏の館があったそうです。
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琵琶館跡

安倍氏一族の居館跡と伝わる処で、並木屋敷(衣川柵)の近くにあります。 衣川が琵琶状に蛇行する地形から琵琶館と名付けられたとのことですが、 今では館の面影は全くなく、路肩に標識が1本立てられているだけです。
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衣川冊跡

安倍氏の政庁があったところで並木屋敷と呼ばれていたとのこと。 前九年の役で敗れ、衣川を放棄し北へと撤退するまで安倍氏の本拠でした。 その後は奥六郡を支配した清原氏が政庁を置いたとのことです。
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接待館遺跡

奥州市衣川区にある平安時代の遺跡で国の史跡にもなっている遺跡。 藤原基衡の妻が関道を往来する旅人を接待したことが名称の由来とのこと。 また、規模の大きさから安倍氏の政庁跡とも推測されているそうです。
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厨川八幡宮

前九年の役で厨川柵が陥落後、醍醐顕実上人が安倍貞任を偲び、 貞任愛用の小太刀を祀って弔ったのが始まりのようです。 この周辺は安倍館町という地名で、厨川柵のあった所と考えられています。
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大宮神社(盛岡)

坂上田村麻呂が伊勢神宮外宮の豊受皇大御神を勧請して、志波城の鬼門鎮護として創建したとされる神社。 大宮神楽、多賀神楽で知られているそうです。また、平民宰相と呼ばれた原敬の生家に近く、原敬も度々訪れているそうです。
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志波城跡

志波城は征夷大将軍坂上田村麻呂が造営した古代城柵。 延暦22年(803年)の造営で、陸奥国の最北端の城柵となりました。 現在は、志波城古代公園として整備されています。
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