テーマ:長野

小諸城

  武田信玄の東信州経営のために縄張りされた城で、酔月城、穴城、白鶴城、 鍋蓋城、などの別名を持ち、日本100名城の28番に選定されています。 現在は、市営公園小諸城祉懐古園として整備されています。  
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上田城

天正11年(1583年)、武田氏の旧臣である真田昌幸による築城。 二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦が行われたことでで有名。 現在は上田城跡公園として市民に親しまれています。
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市村神社

市村の産土神で、口碑では文治年間(1185~90年)の創建とのことです。 木曽義仲が関与した記録に初めて残る戦いである治承4年(1180年)9月7日に起きた市原合戦は、このあたりで行われたと伝わっています。
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今井兼平墓(川中島)

長野市川中島の今井神社の隣接地にある今井四郎兼平の墓。 今井 兼平は義仲四天王の一人で義仲に従い各地を転戦しましたが、 元暦元年(1184年)正月、琵琶湖の畔の粟津で義仲とともに敗死しました。
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今井神社(長野市)

今井兼平を祀った神社で今井兼平の館跡との説もあります。 今井兼平は義仲四天王の一人で、木曽義仲に従って横田河原の戦いに 出陣し、当時「雲井の里」と呼ばれていたこの地に陣を張ったとのことです。
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依田城跡

長野県上田市御岳堂にある山城跡で、山頂は標高804.6m。 平安時代末期の治承4年(1180年)、木曽義仲 の挙兵にあたり、 依田次郎実信は木曽義仲にこの城を明け渡したと伝わっています。
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根井行親供養塔

長野県佐久市の正法寺境内にある木曽義仲四天王の一人である根井行親の供養塔。 根井行親は義仲が治承4年(1180年)に信濃国の依田城で挙兵して以降義仲に従い各地に転戦し、宇治川の戦いで敗死したとされています。
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根井氏居館跡

長野県佐久市根々井字亀田の正法寺が根井氏居館跡と伝わっています。 根井氏は滋野氏の一族である望月氏の支流と云われ、 根井行親は木曽義仲の四天王の一人と数えられています。
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龍岡城址

元治元年(1864年)築城開始、慶応3年(1867年)完成の西洋式城郭。 函館五稜郭と同じく五芒星形の城で、龍岡五稜郭とも呼ばれています。 城跡は現在、佐久市立田口小学校として利用されています。
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盾六郎親忠館跡

楯親忠は根井行親の六男。義仲四天王の一人として数えられ、 義仲に従って横田河原の戦いや倶利伽羅峠の戦いなどで活躍しました。 宇治川の合戦に父・行親と共に参戦、六条河原で討ち取られたとのことです。
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上田原古戦場

上田原の戦いは、天文17年(1548年)2月14日に信濃国上田原で行なわ れた、甲斐国の戦国大名武田晴信(後の信玄)と北信濃の戦国大名村上義清との戦い。 武田晴信はこの合戦で重臣と多くの将兵を失い、初めての大敗を喫しました。
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真田幸村像(上田駅前)

現在の長野県上田市にある上田城は真田氏の重要な拠点であった城。 真田信繁(幸村)は上田城で徳川軍からの二度に亘る攻撃を退けました。 その後、真田信繁は大坂夏の陣で、その最期まで徳川軍と戦い抜きました。
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真田氏本城跡

長野県上田市真田町にある山城跡。真田氏は真田信繁(幸村)の父である 真田昌幸の代に上田城に移りましたが、その以前、3代に亘り本城としていたとされるのがこの城。 真田山城、松尾新城、住連寺城、十林寺の城山とも呼ばれていたそうです。     
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御屋敷公園

真田氏が上田城を居城とする前に住んでいたといわれる居館の跡。 山城の真田氏本城が真田氏の居城でしたが、日常生活は山城ではなく、 この平地にある居館で営んでいたといわれているそうです。
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宝輪寺

松本市今井にある厄除けの寺として知られる高野山真言宗のお寺。 安元・治承の頃、今井に住した今井四郎兼平が、このお寺の荒廃を歎いて 祈願寺として再建し、自ら中興の開基となったと伝えられています。
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今井神社

長野県松本市今井地区に鎮座する神社で、続麻神社と合祀されています。 社伝によると、この地はもと、今井兼平の館のあった処で、社の前の道は、 兼平の尊崇した西洗馬薬師堂への参詣道であったと伝わっているそうです。
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高島城

長野県の諏訪湖畔にあり諏訪の浮城とも呼ばれる日本三大湖城の一つ。文禄元年 (1592年)から慶長3年(1598年)にかけて日根野高吉が築城。江戸時代 には諏訪藩の政庁でもあり藩主の居所でもあったそうです。
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吉良義周墓

吉良義周は吉良上野介義央の孫にして養子でもあった人物で、松の廊下の刃傷事件の後、吉良義央のあとを継いで吉良家の 当主となりました。しかし、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件のため改易されてしまい、その後、信濃諏訪藩主諏訪忠虎にお預けとなり21歳で亡くなりました。
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法華寺

諏訪大社上社本宮の神宮寺として栄えたのが、現在は臨済宗の法華寺。 天正10年(1582年)の織田信長の甲斐侵攻の際、信長は法華寺に本陣を置きましたが、 ここで明智光秀を折檻したのが本能寺の変の発端となったとされる場所です。
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雷電為衛門像

雷電爲右エ門は信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)出身の 元大相撲力士で、大相撲史上未曾有の最強力士とされています。 諏訪大社上社本宮境内に、矢崎虎夫作(文部大臣賞受賞)の像があります。
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胴合橋

  長野市篠ノ井杵淵の信州そば蔵長野店に隣接してある小さな橋。 第4次 川中島の戦いで、武田信玄の軍師である山本勘助は戦死。その戦死した 山本勘助の首と胴を合わせたという伝説の場所です。  
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青木神社(陣場河原八幡宮)跡

  永禄4年(1561年)9月の第4次川中島の戦い・八幡原の激戦で、前半不利 だった武田軍が後半には攻勢に転じ、上杉軍は劣勢となり犀川を渡って撤退。 戦いの終了後、武田軍は、この神社で勝鬨をあげたと伝わっています。  
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茶臼山本陣跡

  永禄4年(1561年)8月、上杉謙信は1万3千の兵を率いて妻女山に陣をとり、 それに対し、武田信玄は甲府から進軍、この茶臼山に本陣を構えたそうです。 10日後、信玄は茶臼山を降りて海津城に入り、両軍はにらみ合いました。  
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松本城

  永正年間に小笠原氏が林城の支城として築城したのが始まりとのこと。 天守閣の建造年には諸説ありますが、1591年~1615年の間だそう です。この天守閣は現存12天守の一つで、国宝に指定されています。  
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諏訪御料人供養塔

長野県岡谷市の小坂観音院の境内にある諏訪御料人の供養塔。諏訪御料人は諏訪頼重の娘で武田勝頼の母ですが、本名は不明。小説の中では、湖衣姫、由布姫、とも名づけられています。
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小坂観音院

長野県岡谷市にある真言宗智山派のお寺で、かつては諏訪大社の社坊。諏訪氏の祈願所だったところで、井上靖の著書「風林火山」では、諏訪頼重の娘の由布姫が武田信玄の側室となり、この観音院で暮らす設定になっています。
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武田勝頼母墓

長野県伊那市高遠町西高遠の建福寺境内にある武田勝頼母の墓。武田勝頼が藩主の時、武田家菩提所として母諏訪御料人を埋葬したそうです。一番右が武田勝頼母の墓、中央が武田家家臣保科正直、左が高遠藩初代藩主保科正光の墓です。
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荒砥城跡

荒砥城は現在の長野県千曲市にあった山城で、この地域の領有をめぐる上杉氏、武田氏の攻防戦が川中島の戦いへとつながっていきました。現在は城山史跡公園として整備され、大河ドラマのロケにも使用されました。
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山本勘助墓

山本勘助は武田信玄の側近として活躍した軍師で武田24将の一人。第4次川中島の戦いの際、山本勘助の献策した啄木鳥戦法が上杉謙信に見破られて失敗し、山本勘助も合戦の中で討ち取られました。
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広瀬の渡し

永禄4年(1561年)9月10日の早暁、妻女山から下りてくる上杉謙信軍を待ち受けるべく、武田信玄は八幡原に本営を移しました。その時、信玄が8千の兵を率いて渡河したのが、この地点と伝わっています。
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