テーマ:平塚宿

脇本陣跡(平塚宿)

脇本陣は本陣の補助的な役目をし、大名や公家の家来等の身分の高い人が利用しましたが、特権階級の宿泊のない時は農民や町民など庶民も泊まれたのが特徴とのことです。
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高麗山

平塚市と大磯町に跨る標高168mの山で、歌川広重の「東海道五十三次」の平塚宿にその姿が描かれたことで知られています。高麗山と泡垂山の山頂一帯は現在は公園となっていて、湘南平と呼ばれています。
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京方見附跡(平塚宿)

各宿場の両端には城門に似た「見附」が設けられており、一般的に京都側にあるものを「京方見附」とか「上方見附」「京口見附」と呼んでいました。国道1号線と旧東海道の合流点に、平塚宿の京方見附跡があります。
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平塚の塚

桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなったとのこと。土地の人々は遺体を塚を築いて葬り、これが「平塚」の由来となったそうです。
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西組問屋場跡(平塚宿)

平塚宿の問屋場は、二十四軒町と西仲町にそれぞれ1カ所あり、宿役人は問屋3名、年寄6名、帳付11名、馬指6名、人足指6名で構成され、両方の問屋場に、毎月10日毎に交替で勤めていたそうです。
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本陣旧蹟(平塚宿)

平塚宿本陣は建坪163坪、座敷数が20あり、門・玄関・上段の間が取り付けられていて、14代将軍徳川家茂、また、明治天皇も明治元年(1868年)と明治2年(1869年)の東京行幸と東京遷都の際に小休しているそうです。
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高札場跡(平塚宿)

平塚の旧東海道沿いに平塚宿高札場跡の石碑が建てられています。高札場は幕府や領主の基本的な法令を書いた高札を掲示した場所で、道が交差したところなど、人の往来の多いところに、つくられたそうです。
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江戸見付跡(平塚宿)

平塚市見附町の市民センター近くに、平塚宿の江戸見付跡があります。見附は宿場の出入り口のことですが、本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことで、城下に入る人々を監視する役目を持っていました。
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