テーマ:山梨

理慶尼墓

  理慶尼は武田晴信(武田信玄)の従妹に当たる戦国時代の女性。新府城 から落ち延びてきた武田勝頼一行が大善寺に立寄った際の様子を物語調 に「理慶尼記」(武田滅亡記、大善寺蔵)として記したそうです。  
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大善寺(勝沼)

  山梨県甲州市勝沼町にある本尊を薬師如来とする真言宗智山派のお寺。 新府城から岩殿城に向かう武田勝頼が途中で立ち寄り、また幕末には甲 陽鎮撫隊がこの付近で新政府軍と戦うなど、歴史の舞台にもなっています。  
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柏尾古戦場

  甲州勝沼の戦いは、慶応4年3月6日(1868年3月29日)に行われた戊辰 戦争の一つで、柏尾の戦い、勝沼・柏尾の戦い等とも呼ばれています。近藤 勇率いる甲陽鎮撫隊は、新政府軍に敗れ、江戸へと敗走しました。  
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近藤勇像(勝沼)

  慶応4年3月、近藤勇率いる新選組は甲陽鎮撫隊と改称して甲州へと進軍。 当初は甲府城を目指しましたが、官軍の東山道軍と勝沼字柏尾で交戦し、 兵力・武力とも官軍と比べ脆弱な鎮撫隊は、僅か1日の戦闘で壊滅しました。  
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岩殿山城跡

  岩殿山城は現在の山梨県大月市の標高634mの岩殿山に築かれた山城。 甲斐国都留郡の国衆小山田氏の居城とされ、東国の城郭の中でも屈指の 堅固さを持ち、新府城を捨てた武田勝頼はこの城を目指していたそうです。  
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武田勝頼公霊社

  新府城本丸跡にある武田勝頼の慰霊塔で、左右に家臣の慰霊柱も並んで います。武田勝頼は天正9年(1581年)の年末には、未完成の新府城へ 移住しましたが、そのわずか3か月後に城に火を放ち滅亡していきました。  
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新府城跡

  天正9年(1581年)に武田勝頼が、現在の山梨県韮崎市中田町に築城した城。 韮崎は甲府盆地北西端に位置していますが、戦国期に拡大した武田領国の中 枢に位置し、甲府よりも広大な城下町造営が可能であったと考えられます。  
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藤武稲荷神社

  新府城築城の際、稲荷曲輪に城の守護神として祀られた神社だそうで、 現在でも、勝頼公を合祀され、新府城本丸跡に鎮座しています。落城と ともに焼失した神社を徳川家康が再建したと伝えられています。  
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信玄公御使用井戸

武田神社(武田氏館跡)境内にある、武田信玄が使用したと伝わる井戸。 武田氏館(躑躅ヶ崎館)は、永正16年(1519年)に武田信虎によって築かれ、 以後、晴信(信玄)・勝頼まで3代にわたって武田領国の政治的中心地でした。  
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武田神社

  山梨県甲府市古府中町にある、武田信玄をご祭神とする神社。大正8年 (1919年)に、躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)に社殿が竣工し、武田 信玄の命日にあたる4月12日に、初の例祭が行われたそうです。  
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天目山栖雲寺

  山梨県甲州市大和町木賊にある臨済宗建長寺派のお寺で、山号は天目山。 天正10年、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に加え、家臣の小山田信茂の 謀反にあった武田勝頼が、落ち延びる際に目指した地とされています。  
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蕎麦切り発祥の地

  山梨県甲州市大和町木賊にある天目山栖雲寺に碑が建てられています。 蕎麦は初め、実を粉にして食べるそばがき、そば餅として食べられており、 今の様な細く切って茹でた蕎麦(蕎麦切り)はここ栖雲寺の発祥だそうです。  
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土屋惣藏片手切り

  土屋昌恒(惣藏)は武田勝頼が滝川一益隊に天目山で追いつめられ自害を 覚悟したとき、勝頼が自害する間の時間を稼ぐため織田勢と戦って奮戦し、 (この奮戦の様子が土屋惣藏片手切りとして伝わる)最後は討ち死にしました。  
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武田勝頼墓(景徳院)

  山梨県甲州市の景徳院にある勝頼の墓は、宝篋印塔の銘文によれば200 周忌にあたる江戸時代の安永4年(1775年)に、11世住職により造立され た供養塔で、勝頼を中心に信勝と北条夫人のものが両脇に配されています。  
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北条夫人生害石

  北条夫人は、北条氏康の6女とされ、甲斐国主である武田勝頼の継室。 織田軍の侵攻を受け、勝頼と共に岩殿城を目指して逃れようとしましたが、 天目山近くの田野で発見され、勝頼らと共に自害しました。享年19歳。  
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武田信勝生害石

  武田信勝は武田勝頼の長男で、母は織田信長の養女である龍勝院。天正 10年(1582年)、織田軍の侵攻に遭い逃れる途中、天目山麓の田野で捕 捉され、3月11日、父の勝頼や家臣らと共に自害したとのことです。  
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武田勝頼生害石

  甲州市大和町田野の景徳院境内にある、武田勝頼自害の場と伝わる石。 武田勝頼は、甲斐武田家第20代当主でしたが、天正10年(1582年)、 織田信長に攻められ、田野まで逃れてきて、この地で最期を迎えました。  
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景徳院

  山梨県甲州市大和町田野の、甲斐武田氏滅亡の地にある曹洞宗のお寺。 武田氏の滅亡後、家康に臣従した武田遺臣が、武田勝頼と家臣ら殉死者 の菩提を弔うため、田野郷一円を寄進して、景徳院を創建したそうです。  
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四郎作古戦場

  景徳院から約500m、鳥井畑古戦場から約200mのところにある古戦 場。甲斐武田家滅亡の時、鳥井畑古戦場と同様に、武田勝頼の自刃の 時を稼ぐため、小宮山友晴などの忠臣が織田軍と激戦をしたところです。  
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鳥井畑古戦場

  現在、景徳院のある山梨県甲州市の田野で、甲斐武田氏は滅亡しました。 その際、武田勝頼等の自害の時を稼ぐために、この地で激戦が行われ、 小宮山友晴、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、等の忠臣が討死にしました。  
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旗堅松

  山梨県甲州市の景徳院境内、本堂近くにある「旗堅松」と呼ばれる松の 木。甲斐武田氏滅亡の日、武田勝頼は死の間際、日の丸の御旗をこの 松の根元に立て、嫡男の信勝に楯無鎧を着せたそうです。  
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武田勝頼辞世の句

  武田勝頼の最期は、天正10(1582年)年3月11日で、辞世の句は、   おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 嫡男の信勝や正室の北条夫人と共に、田野の地で自害。享年37。  
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没頭地蔵尊

  武田氏終焉の地、甲州市田野の景徳院にある、首の無い3体のお地蔵 様。首級をとられ首のなかった武田勝頼、北条夫人、信勝ら3人の遺骸 を、その無念さを偲んだ地元の人々が、この地蔵尊に安置したそうです。  
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姫が淵碑

  山梨県甲州市大和町田野にある景徳院の駐車場に碑が建てられています。 武田勝頼と共に落ち延びた北条夫人の身辺の世話をしていた侍女16名も、 武田氏の滅亡と共に命を絶ったとされ、その場所が姫が淵と呼ばれています。  
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