テーマ:広島

戦艦陸奥主砲(呉)

戦艦陸奥は長門型戦艦の2番艦で、1番艦「長門」と共に日本の力の象徴 として日本国民に長く愛されました。竣工当時は世界に7隻しか存在しなかっ た40cm砲搭載戦艦として「世界七大戦艦」と呼ばれていました。
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戦艦陸奥スクリュー

陸奥は日本の力の象徴として日本国民に長く愛された戦艦でしたが、昭和 18年(1943年)6月8日、原因不明の爆発事故を起こし柱島沖で沈没。 戦後に浮揚作業が行われ、日本各地で陸奥の装備が展示されています。
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零式艦上戦闘機(大和ミュージアム)

日本の誇る旧帝国海軍の主力戦闘機。零戦の「零式」との名称は、正式 採用された昭和15年(1940年)が皇紀2600年にあたり、その下2桁が 「00」であるため。零戦六二型が大和ミュージアムに展示されています。
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九一式徹甲弾

大日本帝国海軍が戦艦・巡洋艦用に開発した徹甲弾で、目標の手前に落下した砲弾が水中である程度の距離を水平に直進し、艦船の水中防御部 に命中する水中弾効果を持つ砲弾。戦艦大和にも搭載されました。
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中島栄エンジン

第二次世界大戦期に中島飛行機が開発・製造した空冷星型航空機用 レシプロエンジン。零式艦上戦闘機・一式戦闘機「隼」のエンジンとして 有名であり、合計33233台製造されました。
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特殊潜航艇海龍

大日本帝国海軍の特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷もしくは体当りにより攻撃を行う二人乗りの有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器。広島県呉市の大和ミュージアムに展示されています。
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戦艦大和(模型)

戦艦大和は大和型戦艦の1番艦。2番艦「武蔵」とともに史上最大にして、 唯一46センチ砲を搭載した戦艦。昭和20年(1945年)4月7日特攻作戦を決行し沈没。 大和ミュージアムに1/10の模型が展示されています。
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大和のふるさと

広島の呉海軍工廠では、戦艦大和、戦艦長門、空母赤城等の数々の艦船が建造されました。戦艦大和を建造したドックは埋め立てられ、現在は上屋 (骨組みは当時のまま)だけが残されています。
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噫戦艦大和之塔

戦艦大和を建造した旧呉海軍工廠を望む「歴史の見える丘」に、昭和44 (1969年)の第30回大和進水日(8月8日)を記念して呉大和会により建てられた記念碑。大和の艦橋をかたどった塔で、主砲徹甲弾も展示されています。
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呉海軍工廠跡

明治22年(1889年)呉鎮守府設置と同時に「造船部」が設置され、明治36年 (1903年)に日本海軍の組織改編で呉海軍工廠が誕生。その後は東洋一と呼ばれる程にまで設備を充実させ、日本海軍艦艇建造の中心地となりました。現在はジャパンマリンユナイテッド呉工場として大型民間船舶を建造しています。
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造船船渠記念碑

呉市の歴史の見える丘にある記念碑。戦艦大和をはじめ、時代を代表する商船を数多く建造した旧呉海軍工廠造船船渠(ドック)が埋め立てられることになり、ドックの壁石を使ってドックの底に下りる階段を再現したものです。
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大講堂(江田島)

江田島にある旧海軍兵学校時代からの大講堂。大正6年(1917年)に兵学校生徒の入校式、卒業式また精神教育の場として建築され、現在も幹部候補生、第1術科学校の学生等の入校式、卒業式等儀式に使用されています。
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戦艦大和主砲弾・特殊潜航艇

旧海軍兵学校の教育参考館の前に展示されている戦艦大和の主砲弾と特殊潜航艇。この特殊潜航艇は真珠湾攻撃に参加した5隻の中の1隻 で、昭和35年に真珠湾沖で米海軍により引き揚げられたものです。
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教育参考館(江田島)

広島県の江田島にある展示資料館で、海軍兵学校卒業生の積立金及び 一般企業等の寄付をもって、昭和11年(1936年)に建築されたそうです。 内部には旧日本海軍に関する貴重な資料が数多く展示されています。
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海軍兵学校生徒館(江田島)

広島県の江田島にある、通称「赤レンガ」とも呼ばれる旧海軍兵学校の象徴ともいえる建物。明治26年(1893年)に海軍兵学校生徒館として生徒の教育のため建築され、現在は海上自衛隊幹部候補生学校庁舎になっています。
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厳島合戦跡

厳島合戦は天文24年(1555年)10月1日に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた合戦。厳島に陣を張った約2万の陶晴賢の軍に約3千5百の毛利軍が奇襲をかけ、毛利軍の大勝利となりました。
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厳島神社

創建は推古天皇の時代とされていて1400年の歴史を誇る神社。平家一門の氏神として崇敬され平家納経も奉納されました。日本三景の一つであり、 ユネスコの世界文化遺産にも登録されています。
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後白河法皇御行幸松

後白河法皇のお手植えとされる松の遺木で、厳島神社社殿の裏手に保存されています。 承安4年(1174年)3月、後白河院は平清盛の義理の妹でもある滋子を伴い厳島神社に参詣し、回廊の下の波や山の緑といった風景を楽しんだそうです。
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反橋(厳島神社)

厳島神社の裏手にあり、陸地と社殿とを結ぶ橋。朝廷からの勅使が参拝するときにこの橋を渡って本殿に向かったと伝わっていて、勅使橋とも呼ばれています。長さ23m、幅4mの橋で、国の重要文化財に指定されています。
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五重塔(宮島)

宮島の厳島神社の北側の丘の上に建つ、高さ27.6mある応永14年 (1407年)に建立されたもの伝わる五重塔。正式には厳島神社・五重塔 ではなく、「厳島神社の末社・豊国神社の五重塔」とのことです。
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康頼灯篭

宮島の厳島神社の境内、卒塔婆石の直ぐ傍にある石灯籠。鬼界ヶ島から 流した千本の卒塔婆のうちの一本が幸運にも厳島神社に流れ着き、康頼 は許され、それに感謝した康頼が寄進したと伝わっています。
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卒塔婆石

安芸の宮島の厳島神社の境内にある石。 鹿ケ谷事件に連座し、鬼界ヶ島に流されていた平康頼が、千本の卒塔婆に望郷の歌を記し海に流したところ、その中の1本がここに漂着したと伝わっています。
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大鳥居(厳島神社)

厳島神社の沖合約200mの所に立つ、春日大社・気比神宮の大鳥居と共に「日本三大鳥居」に数えられる大鳥居で、高さは16.6m。現鳥居は明治 8年(1875年)の再建で、平清盛の造営時から8代目と言われています。
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平清盛像

平清盛により現在の海上に建つ大規模な社殿が整えられた厳島神社は、 平家一門の隆盛とともに大いに栄えました。宮島桟橋前広場に厳島神社と縁の深い平清盛の像が建てられています。
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広島城の暗渠跡

広島城の南側にある地下歩道を少し入った所の壁に案内板が設置され ています。この暗渠は、かつて広島城の内堀と中堀を結んでいたもので、 堀の水量の調節のためのものだったと考えられているそうです。
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広島大本営跡

広島大本営は明治27年(1894年)に勃発した日清戦争の指揮のため、 広島城内に設置された大日本帝国軍の最高統帥機関。一時的とはいえ、この時期の広島市は臨時の首都機能を担いました。
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広島城天守閣礎石

広島城の天守閣は原爆で破壊されてしまいましたが、その後昭和33年 (1958年)に再建されました。その際、もと天守閣柱下の礎石が掘りおこされ天守閣の直ぐ近くのこの場所に原型のまま移され保存されています。
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広島城

現在の広島市中区に築かれた安土桃山時代から江戸時代にかけての城。 毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、名古屋城、岡山城と 共に日本三大平城に数えられ、日本100名城の一つにも選定されています。
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頼山陽像

広島県尾道市の千光寺境内にある頼山陽の像。 頼山陽は幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた「日本外史」の著者で、 千光寺の「撫松庵」は、頼山陽が命名したものだそうです。
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福山城

大坂夏の陣のあと、西国有力大名への抑えとして築城された城。久松城、 葦陽城とも呼ばれ、日本100名城にも選定されています。幕末には幕府側の重要拠点であったため、新政府軍から攻撃されました。
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