テーマ:京都

七条仏所跡

京都市下京区材木町にある定朝の子とされる覚助を祖とする仏師の工房跡。鎌倉時代にはこの仏所から5代康慶、6代運慶、7代湛慶および 快慶らが相次いであらわれ、剛健写実的な作品を生み出していきました。
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太閤塀

三十三間堂の南端、塩小路通に面してある築地塀で、豊臣秀吉によって寄進されたものだそうです。方広寺大仏殿が創建された時、蓮華王院も方広寺の境内に含まれたため、その工事に伴って築造されたとのことです。
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三十三間堂

京都市東山区にある国宝に指定されている仏堂で、正式名称は蓮華王院本堂。堂内中央に鎌倉時代の仏師湛慶作の本尊千手観音坐像が安置され、 その左右と背後に計1001体の千手観音立像が並んでいます。また、宮本武蔵と吉岡伝七郎の決闘の場であったとも伝わっています。
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法住寺殿址

蓮華王院は長寛元年(1163年)に、平清盛が造立した法住寺殿の堂宇の一 つ。かつてこの地は後白河法皇が出家して院御所として住し、法住寺殿と呼ば れていましたが、寿永2年(1183年)、木曾義仲の襲撃により焼失しました。
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電気鉄道事業発祥地

京都駅のすぐ近く、京都市下京区塩小路通東洞院南西角にある記念碑。 明治28年(1895年)、この地を起点として日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線が、伏見町下油掛までの約6kmを走りました。
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本光寺

京都市下京区油小路にある日蓮宗のお寺。慶応3年(1867年)11月18日、 伊東甲子太郎は近藤勇に呼ばれ妾宅で接待を受け、酔わされたその帰途、 本光寺門前で新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺されました。
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伊東甲子太郎絶命の跡

伊東甲子太郎は孝明天皇陵の御陵衛士を拝命し新選組から独立。新撰組は伊東を騙し討ちにし、深手を負った伊東は本光寺の門前に辿り着き、この石柱にもたれかかり、程なく石柱を抱くようにして絶命したと伝わっています。
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油小路七条の辻

幕末に起きた新選組と御陵衛士の抗争事件、油小路事件の現場。新選組は ここに伊東甲子太郎の遺骸を放置して待ち伏せ、遺体を引き取りにきた御陵衛士7名を40~50名で取り囲み、御陵衛士の3名を斬殺しました。
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中井正五郎殉難之碑

坂本龍馬・中岡慎太郎を敬愛していた中井正五郎は、 坂本・中岡暗殺の首謀者とみなされた三浦休太郎を、慶応3年(1867年)12月7日、 陸奥宗光らと共にこの地にあった旅亭天満屋に襲撃し、護衛の新選組と戦って倒れました。
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本圀寺跡

西本願寺からやや北の所、大宮通に面して建つ本圀寺跡の石碑。戦国時代の本圀寺は足利義昭の仮居所(六条御所)となるなど、 歴史の舞台にもなり、また、正徳元年(1711年)には徳川家宣の襲封祝賀のため来日した朝鮮通信使の宿舎としても使用されました。本圀寺は現在、京都市山科区に移転しています。
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従是南六条御境内(道標)

京都市下京区、西本願寺から少し北の堀川通に面したところにある石標。 この石標は「これより南、六条の御境内」との意味で、西本願寺の北の 境界を示していたもの。近年の工事中に掘り出されたものとのことです。
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左女牛井戸跡

左女牛井は京の名水の一つで、堀川五条のやや南に碑が建てられています。この辺りは、源頼義・義家・為義・義朝・義経などが居を構えた六条堀川館があった所とのことで、この左女牛井はその源氏の本拠地の邸内にあったそうです。
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本圀寺跡石碑

堀川五条交差点から少し北の処にある石碑。 日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が本国寺(後の本圀寺)の起源で、貞和元年(1345年)に本国寺は鎌倉から京都へ移されました。また、永禄12年(1569年)にはここを居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃された(本圀寺の変)場所でもあります。
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小野寺丹墓

小野寺丹は赤穂義士の一人である小野寺十内の妻。江戸で夫が切腹すると丹は本圀寺で食を断ち亡くなったとも、娘の墓前で切腹したとも伝わっています。京都市下京区、堀川五条近くの路地の奥に墓があります。
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小野寺いよ墓

小野寺いよは小野寺十内の妻である丹の妹で小野寺十内の養女になった女性。 赤穂浪士の討ち入りの年である元禄15年(1702年)の4月21日に没。いよの墓は京都市下京区、堀川五条近くにある小野寺丹の墓の隣にあります。
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光縁寺

京都市下京区にある浄土宗のお寺。かつて光縁寺門前近くには新選組の 馬小屋があったことから新選組との縁も深く、境内には、山南敬介をはじめ、 松原忠司、桜井勇之進、田内知などのほか多くの隊士の墓があります。
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新撰組隊士墓(光縁寺)

京都市下京区の光縁寺にある新撰組隊士の墓。3つ並ぶ墓石の向かって一番右側が脱走して切腹をした山南敬助の墓。少し離れた小さな墓石は、 沖田総司が連れてきた縁者で山南敬助の恋人「明里」の墓だそうです。
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前川家(壬生)

文久3年(1863年)から2年間、新選組の屯所となった京都の壬生にある家で、池田屋事件の端緒となった古高俊太郎の拷問はここの土蔵で行われたとのことです。現在は個人の住宅のため、内部は一般公開されていません。
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八木家(壬生)

文久3年(1863年)春、江戸から京に入った浪士隊が宿営した京都壬生村の郷士の家。その後分裂した浪士隊の一部が新撰組を結成し、この八木家を屯所としました。内部抗争で芹澤鴨が暗殺された部屋とその時の刀傷が残されています。
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新徳寺

京都市中京区壬生にある臨済宗永源寺派のお寺。新撰組にまつわる最初の大舞台となった場所で、上洛した新撰組の前身浪士組のリーダーであった清河八郎が、浪士達を集めて大演説をしたのがこの新徳寺の本堂です。
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壬生寺

京都市中京区壬生にある律宗大本山のお寺。幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組の本拠が壬生村の八木家に置かれたため、当寺境内は新選組の兵法調練場として使われ、武芸などの訓練が行われたそうです。
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新撰組顕彰碑・慰霊塔

京都市中京区の新撰組との縁が大変に深い壬生寺にある新撰組顕彰碑と新撰組隊士慰霊塔。「新選組顕彰碑」は京都で活動している「新選組同好会」 が、結成20周年を記念して平成7年(1995年)に建てたものだそうです。
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近藤勇像(壬生寺)

幕末の京都の街で恐れられた新選組は、京都守護職配下の組織として壬生の八木家で発足。近藤勇はその新選組局長として京の街の治安活動に大活躍した人物で、八木家のすぐ近くの壬生寺の境内に像があります。
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河合耆三郎墓 近藤勇遺髪塔

京都市中京区の壬生寺境内にある河合耆三郎の墓と近藤勇の遺髪塔。 河合耆三郎は勘定方として活躍した新撰組隊士で、池田屋事件にも参戦し褒賞金をもらっていましたが、慶応2年(1866年)2月、切腹させられました。
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新選組隊士墓

京都市中京区の壬生寺の境内にある新選組隊士の墓。左側にあるのが 文久3年(1863)9月16日に八木邸で暗殺された芹沢鴨と平山五郎の二人の墓で、右側にあるのが池田屋事件で亡くなった隊士など7名の墓です。
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人丸塚

京都市中京区の壬生寺の境内にある、万葉集で知られる歌人・柿本人麻呂 の灰塚と伝えられている塚。「人麻呂」が「人丸」となり、「火止る」に通じることから火除けのご利益があるとのことです。
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島原大門

日本初の幕府公認の遊女街である京都の島原の東入口にあたる大門で、 京都市の登録有形文化財。大門は明和3年(1767年)に現在地に付け替 えられ、現在の門は慶応3年(1867年)に建てられたとのことです。
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輪違屋

京都市下京区の島原にある、現在も営業している置屋兼お茶屋。この建物 は安政4年(1857年)に再建されたもので、明治4年(1871年)にほぼ現在 の姿となり、昭和59年(1984年)には市の有形文化財に指定されています。
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角屋

京都の島原花街で営業していた揚屋(料亭・饗宴施設)。幕末には久坂玄瑞、 西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、豪商からの資金調達のための接待に使用され、また、新選組もここでの遊興を楽しんでいたそうです。
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牛若丸首途の井

京都市右京区花園艮北町に井戸跡を示す石標が建てられています。 この地は金売り吉次の屋敷跡といわれ、牛若丸が奥州に旅立つ際にここの井戸の水を汲んで別れを惜しんだという伝承があります。
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