テーマ:滋賀

北条仲時墓

  北条仲時は鎌倉時代の北条氏一門で、鎌倉幕府最後の六波羅探題北方。 元弘3年(1333年)5月、六波羅を攻め落とされると、東国へ落ち延びようと しましたが叶わず、番場の蓮華寺本堂前で一族432人と共に自刃しました。  
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蓮華寺

  滋賀県米原市番場にある、浄土宗(旧時宗)のお寺で、聖徳太子によって 開かれた寺と伝えられ、当初は寺号を法隆寺と称していたとのことです。 六波羅探題北方の北条仲時が、一族郎党432名と伴に自刃したお寺です。  
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安土城

  天下制覇を目指した織田信長が、琵琶湖畔の安土山に築いた城。岐阜城 よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できる等の利点がありました。優れた 築城技術も導入されていて、以降の各地の築城にも影響を与えました。  
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平宗盛終焉の地

  平宗盛は平清盛の三男、平家一門の武将・公卿で、官位は従一位内大臣。 壇ノ浦の戦いで、宗盛は死にきれずに捕虜となり、鎌倉に送られましたが、 京都に送還される途中、嫡男清宗とともに、近江国篠原宿で斬首されました。  
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義経元服池

  承安4年(1174年)、鞍馬山を脱出した牛若丸は、現在の滋賀県竜王町の 時の長者「沢弥傳」の屋敷に泊まり、その夜、元服することを決意しました。 この池の水を用いて元服した牛若は以後、源義経と名乗るようになりました。  
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烏帽子掛けの松

  滋賀県竜王町の鏡神社の参道にある松の古木。鏡の宿でただひとりで元服 した牛若が元服後に鏡神社に参拝し、源九郎義経と名乗りをあげて、源氏の 再興を祈願した際に、この松の枝に鳥帽子をかけたと伝わっています。  
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源義経宿泊館跡

  京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、近江の「鏡の宿」(現在の滋賀県竜王町) に到着した牛若丸一行は、承安4年(1174年)3月3日、当時の宿駅の長で あった澤弥伝の「白木屋」の旅籠に宿泊したと伝わっています。  
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明智左馬之助湖水渡りの碑

  山崎の合戦後、明智光秀の敗死を知り、坂本に引き揚げようとした明智 左馬之助秀満は、大津の打出の浜で敵に遭遇し窮地に陥りました。しか し、秀満は琵琶湖を馬を泳がせて渡り、坂本に帰り着いたとのことです。  
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山吹供養塚

  義仲寺境内にある木曽義仲の妻そして妾とも云われている山吹の供養塚。 山吹は京にいましたが、義仲に逢おうとして大津まで来たとき、義仲戦死の 報を聞いて、悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも伝わっています。  
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木曾義仲墓

  木曾義仲は戦いに敗れ、今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びようとしま したが、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にをしました。義仲の 墓所は室町時代に没地近くに開かれた朝日山義仲寺にあります。  
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巴塚

  木曽義仲の愛妻巴は、粟津野の戦いで捕えられて和田義盛の妻となりま したが、義盛も戦死したあとは尼僧となり各地を廻ったとのことです。当地 にも暫く止まり 、亡き義仲の菩提を弔っていたと伝わっています。  
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松尾芭蕉墓

  松尾芭蕉は元禄7年(1694年)10月12日、現在の大阪御堂筋付近にあ った花屋仁左衛門の貸座敷で51歳の生涯を閉じました。その遺骸は遺言 通り、大津の義仲寺にある木曽義仲の墓の隣りに埋葬されたとのことです。  
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義仲寺

  寺の創建については不詳ですが、木曾義仲の死後、愛妾であった巴御前が 墓所近くに草庵を結び、日々供養したことに始まると伝えられているそうで、 別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれていたそうです。  
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弁慶水

  比叡山東塔近くにある「弁慶水」「千手水」「千寿水」などと呼ばれている湧水。 比叡山の西塔に住んでいた武蔵坊弁慶が、千日間の「千手堂 (山王院)」参 籠の際に、ここの水を汲んだと伝えられています。  
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にない堂

  比叡山西塔にある堂で、向かって右側の法華堂と左側の常行堂が渡り廊下 で結ばれています。この渡り廊下を「にない棒」に見立て、武蔵坊弁慶が肩で 担ぎ上げたという逸話から「にない堂」と呼ばれているそうです。  
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延暦寺

  延暦寺は滋賀県大津市坂本本町にあり、比叡山全域を境内とするお寺で、 平安時代初期に僧・最澄により開かれた日本天台宗の本山寺院。平成6年 (1994年)に、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。  
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大津事件現場

  大津事件は、明治24年(1891年)5月11日に、日本を訪問中のロシア帝国 皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で 警備にあたっていた警察官・津田三蔵に斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件。  
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平忠度歌碑

  平清盛の異母弟、平忠度の歌碑が大津市の長等公園に建てられています。     さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな 平家一門と都落ちした後、都の俊成の屋敷に赴き、俊成に託した歌の一首。  
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粟津原

  寿永3年1月21日(1184年3月5日)、近江国の琵琶湖畔粟津原で、木曽 義仲と源頼朝派遣の東国諸将との間で行われたのが粟津原の戦い。多勢 に無勢の義仲軍は壊滅し、木曽義仲と今井兼平は討死にをしました。  
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今井兼平墓(粟津)

  今井兼平は木曽義仲と乳兄弟にあたり、木曽四天王とも呼ばれていましたが、 木曽へと逃れる途中の義仲とともに戦って、粟津で悲壮な最期を遂げました。 義仲が討たれると、刀を口に逆立てて馬から跳び降りたと伝わっています。  
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瀬田の唐橋

  明治22年(1889年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋 は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、壬申の乱、 寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、様々な戦乱に巡り合ってきました。  
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槻御殿

  槻御殿は、延宝5年(1677年)、4代藩主井伊直興により造営が始まり、 同7年に完成したと伝えられ、昭和26年には国の名勝に指定されています。 幕末の大老、井伊直弼の生誕地で、17歳までここで過ごしたとのことです。  
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井伊直政像

  井伊直政は上野国高崎藩の初代藩主で、後に近江国佐和山藩の初代藩主。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、徳川氏きっての政治家、 外交官でもあり、家康の天下取りを全力で支えた功臣として知られています。  
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元亀兵乱殉難者鎮魂塚

  元亀2年(1571年)9月12日、比叡山延暦寺は織田信長軍に焼き討ちされ、 堂塔等がことごとく焼き払われ、僧俗等2千余名が殺戮されたとのことです。 犠牲者だけでなく、攻め込んだ織田軍の霊をも鎮めるための塚だそうです。  
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