テーマ:岐阜

桃配山

関ヶ原の戦いの際、東軍の総大将徳川家康が最初に陣を置いた場所。 また、桃配山は672年に起きた壬申の乱のおり、大海人皇子(後の天武天皇)が 出陣して桃を全兵士に配り、戦いに快勝した所と伝えられています。
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東首塚

JR関ケ原駅からすぐ近くのところにあるのが関ケ原合戦の東首塚。 家康の命により首実検後の首を竹中重門が祀ったとされるところです。 関ケ原合戦の戦死者は、両軍合わせて1万~4万にも上るそうです。
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松平忠吉・井伊直政陣跡

慶長15年(1600年)9月15日の関ケ原の合戦において、家康の4男である松平忠吉と後に彦根藩主となる井伊直政が約6000の兵を率いて陣を構えた場所。 午前8時頃、この両名は先鋒の福島正則より先に抜け駆けをして攻撃を開始し、関ヶ原合戦の戦端が開かれました。
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首洗いの古井戸

討ち取った首級を洗ったとされる古井戸で、関ケ原の東首塚のすぐ脇にあります。 家康による首実検に先立ち、合戦で討ち取られた西軍将士の首級は、 この井戸水を使って血や土などが洗い落とされたと伝わっています。
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芭蕉句碑(不破の関)

岐阜県不破郡関ケ原町の不破関跡に建つ松尾芭蕉の句碑。     「 秋風や藪も畠も不破の関 」芭蕉が伊賀上野への旅を記した「野ざらし紀行」の中の一句だそうです。
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不破の関守跡

天武天皇2年(673年)、天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を 守る為に不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所が設置されました。 当時は、この三関から東が東国または関東と呼ばれていたそうです。
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本田忠勝陣所跡

本多忠勝は徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられた武将。 関ケ原合戦においては「十九女池」の西側に陣を置き、軍監として参戦した ものの、島津隊に向かって進撃して西軍武将の切り崩しにも活躍したそうです。
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島津豊久碑

島津豊久は安土桃山時代の武将で、島津義弘に仕えた島津氏の家臣。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伯父の義弘と共に西軍として参陣。 島津軍が戦場を離脱する際に、豊久は義弘の身代わりとなって討死しました。
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関ケ原

伊吹山の南東麓に位置する交通の要衝で古代には不破関があった処。 慶長5年(1600年)9月15日の関ケ原の合戦では、東西両軍合わせて18万ともいわれる軍勢が集結し、天下分け目の激戦が繰り広げられました。
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小早川秀秋陣所跡

関ケ原を見下ろす松尾山にある小早川秀秋の陣地跡。 小早川秀秋は西軍として1万5千の兵を率いて松尾山に出陣しましたが、最終的には 家康の催促に応じて松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかりました。
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福島正則陣跡

東軍の先鋒で約6000の兵を率いた福島正則の陣地跡。福島正則は当日未明に春日神社辺りに着陣し、開戦後、宇喜多隊に襲いかかったそうです。 神社境内に立つ樹齢800年の大杉は関ケ原合戦屏風にも描かれています。
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西首塚

関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬したと伝わる塚で別名が胴塚。 塚の正面にある御堂には千手観音と馬頭観音が安置されているそうです。 東首塚は東軍関連、西首塚は西軍関連の首塚とする説もあります。
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開戦地(関ケ原)

慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ケ原の戦いの開戦地。 合戦当日の朝、松平・井伊隊が先峰の福島隊の脇を通り抜け、西軍の 宇喜多隊の前へ進出、遅れじと福島隊が一斉射撃を開始したとのことです。
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宇喜多秀家陣所跡

関ケ原合戦において、西軍副大将の宇喜多秀家は西軍最大の17000 の兵でこの地に陣を置き、東軍の福島勢との激突から戦いは始まりました。 宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りといわれています。
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小西行長陣所跡

石田三成の陣のあった笹尾山から約700m程南にある小西行長陣所跡。 北は北国街道、南は中山道を押さえる重要な場所で、開戦地はすぐ目の前。 開戦とともに北天満山から烽火をあげて味方に開戦の合図をしたそうです。
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島津義弘陣地跡

笹尾山の石田三成の陣跡から南に500m程の処の島津義弘陣跡。 戦国の雄・島津軍千人を率いた義弘はここ小池村に陣をかまえ、西軍の 敗色が濃くなると、ここから決死の敵中突破を行い薩摩まで帰還しました。
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徳川家康最後陣地跡

慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ケ原の戦いの際、徳川家康は 桃配山から三成本陣の笹尾山のすぐ下のこの地に本陣を移動させました。 合戦終了後にはこの場で、討ち取ってきた敵の首級が実検されたそうです。
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関ケ原決戦地

石田三成の陣があった笹尾山からすぐ近くにある関ケ原決戦地の碑。 西軍の敗色が濃くなるなか、石田三成の首を取ろうと攻める寄せる東軍と必死で応戦した西軍とが最大の激戦を繰り広げた場所と伝わっています。
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石田三成陣所跡

慶長5年9月15日(1600年10月21日)の関ケ原の合戦において、 西軍の石田三成は関ケ原を見渡せる笹尾山の頂上に陣を置きました。 三成は当日の早朝に到着し、朝の5時頃には陣形を整えたとのことです。
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島左近陣所跡

石田三成の陣した笹尾山の下にある三成第一の家臣、島左近の陣所跡。 島左近は「治部少に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と 謡われたほどの猛将でしたが、銃弾を受けて討ち死にしたと伝わっています。
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大谷吉継陣所跡

大谷吉継は無謀とは知りながら、関ケ原の戦いでは西軍に属して参戦。 当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、合戦が始まる1ヶ月も 前から松尾山の真正面のこの地に陣を作り始めたそうです。
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大谷吉継墓

大谷吉継は戦国期から安土桃山時代にかけての武将で豊臣秀吉の家臣。 業病を患い失明の状態で関ヶ原の戦いに臨み、輿に乗って指揮して奮戦しましたが、 ついに敗戦すると家臣湯浅隆貞の介錯で切腹して果てたと伝わっています。
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平塚為広の碑

平塚為広は豊臣秀頼に仕えた武将で、関ヶ原合戦の直前には大谷吉継と共に佐和山城で石田三成に諫言しました。しかし説得は失敗し、西軍に与することとなり、関ヶ原本戦では大谷吉継軍に属して奮戦しましたが討死にをしました。
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池田輝政陣所跡(関ケ原)

池田輝政は関ケ原合戦では東軍につき、前哨戦で岐阜城を陥落させました。また、関ヶ原本戦では南宮山の麓に陣を構え、南宮山の毛利秀元や吉川広家らの軍勢が東軍の横を突くのを警戒する役目にあたりました。
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春王・安王墓

岐阜県不破郡垂井町にある足利春王丸、足利安王丸の兄弟の墓。兄弟は京へ護送されていく途中、足利義教の命令により美濃国垂井宿の金蓮寺で殺害されましたが、墓は金蓮寺より西方約500ⅿの所にあります。
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春王・安王処刑の地

足利春王丸、足利安王丸の兄弟は関東公方足利持氏の子。 結城合戦で敗れて捕らえられて京都への護送中、足利義教の命令により美濃国垂井宿の金蓮寺にて殺害されました。享年春王13歳、安王11歳。
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芭蕉句碑(青墓)

松尾芭蕉が、円興寺の源朝長公の墓にお参りした時に作った句。     苔埋む 蔦のうつつの 念仏哉元円興寺の仁王門推定地のすぐ近くに句碑が建てられています。
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大炊家墓

岐阜県大垣市青墓町の源朝長の墓のすぐ側に大炊家の墓があります。 青墓の長者の大炊兼遠の娘延寿は源義朝の側室であり、平治の乱で敗れた源義朝は、大炊氏を頼って青墓まで落ち延びてきました。
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源朝長墓

源朝長は平治の乱で敗れ、父や兄弟達とともに東国へ落ちる途中、美濃国青墓宿で傷が悪化し、父の義朝に頼んで殺害してもらったと伝わっています。 右が父源義朝、真中が兄源義平、左が源朝長のお墓です。
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兜塚

関ケ原合戦の前日の慶長5年9月14日(1600年10月20日)に発生した、 関ケ原合戦の前哨戦である杭瀬川の戦いで戦死した東軍、中村隊の武将、 野一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられている場所です。
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