大念寺

京都府乙訓郡大山崎町、天王山の麓、宝積寺のすぐ下にある浄土宗のお寺。幕末の禁門の変の際に長州藩の一部が大念寺に布陣していたことで巻き込まれて焼失し、再興されたのは明治12年(1879年)になってからのことです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

妙喜庵

京都府乙訓郡大山崎町字大山崎、JR山崎駅のすぐ近くにある臨済宗の庵。日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休がつくったと目されている唯一の現存茶室である「待庵」が、この庵の中にあるそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

製油発祥の地

京都府大山崎町に鎮座する離宮八幡宮境内にある「本邦製油発祥地」の碑。平安時代初期、離宮八幡宮では搾油器を発明して荏胡麻油の製油を始め、朝廷より「油祖」の名を賜り、荏胡麻油の販売権を独占して、大変栄えました。   
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

離宮八幡宮

京都府乙訓郡大山崎町に鎮座する八幡大神を御祭神とする神社。石清水八幡宮の元社にあたる神社で、嵯峨天皇の離宮である「河陽宮」の跡地であったため、後に社号が「離宮八幡宮」と改称されたとのことです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

関大明神社

大阪府三島郡島本町に鎮座する神社で、ご祭神は大己貴命・天児屋根命。この地は西国街道の宿場町で、古くは山崎橋も存在したことなどから交通の要衝として関所が設置されており、この神社自身が関所跡地であるそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

水無瀬神宮

大阪府三島郡島本町に鎮座する神宮。承久3年(1221年)の承久の乱により配流され、そこで崩御した後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇の神霊を配流地から迎えて合祀した神社とのことです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

桜井の駅跡

桜井駅は現在の大阪府三島郡島本町にあった古代律令制度下の駅家。「楠公父子訣別之所」として知られ、敷地内には陸軍大将乃木希典筆の碑、明治天皇御製で海軍大将・元帥東郷平八郎筆の碑、などがあります。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

虎姫観音堂

群馬県庁の西側、利根川河畔にある六角形のお堂。厩橋城で酒井雅楽頭の身の回りの世話をしていたお虎という美しい娘が他の女中の嫉妬のために無残な死を遂げ、その霊を慰めるために建てられたとのことです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

車橋門跡(前橋城)

前橋城車橋門は、慶応3年(1867年)に復興された前橋城の渡りやぐら門の跡。当時、前橋城の外曲輪と内曲輪を結ぶ大手筋にあり、数ある城門の中でも特に重要な門であったとされています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

前橋城跡

前橋城は関東七名城の一つ。古くは厩橋城と呼ばれ箕輪城の支城として築城された石倉城がその始まりと云われています。現在は一部に当時の石垣を残すのみで、城としての面影は残っていません。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

川越城

上杉氏が古河公方(足利氏)に対抗するために江戸城とともに築城。長禄元年(1457年)に太田道真・道灌父子により築城されました。嘉永元年(1848年)に再建された本丸御殿の一部が現在に残されています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

太田道灌像(川越)

長禄元年(1457年)、足利氏の勢力に対抗する上杉氏の本拠地として、上杉持朝は家宰の太田道真、太田道灌父子に川越城の築城を命じました。川越市役所庁舎(川越城大手門跡)に、太田道灌の像が建てられています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

仙波東照宮

元和2年(1616年)に薨去した徳川家康の法要は、久能山から日光山に改葬される元和3年に、天海によって喜多院で行われました。その際、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、この地に東照宮が創建されました。日本三大東照宮の一つです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

天海大僧正像

埼玉県川越市にある喜多院の山門前にある南光坊天海の像。天海は、慶長4年(1599年)に無量寿寺北院の住職となり、慶長17年に北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山としました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

東郷平八郎像

東郷平八郎は薩摩出身の明治時代の軍人で、階級は元帥海軍大将。連合艦隊司令長官として、旗艦三笠に座乗し、日本海海戦の指揮を執り、その完勝により英雄視され、「陸の大山 海の東郷」と呼ばれました。    
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

府中高札場

旧甲州街道と府中街道の交差するかつての府中宿の中心地にあったのがこの高札場。往来の多い宿場にあったため、他の村よりも多くの高札が掲げられていて、天保9年(1838年)には10 枚の札が掲げられていたそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

弁慶硯の井戸

東京都府中市片町の高安寺境内にある井戸。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経が、京都に戻る途中か奥州への途上か、この寺に立ち寄り、武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと伝わっています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

秀郷稲荷大明神

東京都府中市、藤原秀郷の館跡とされている高安寺境内に鎮座する神社。この地は分倍河原の戦いの際、新田義貞が本陣を構えたり、また、応永の乱、永享の乱、享徳の乱など、様々な戦いの際に軍事拠点となった処です。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

高安寺

東京都府中市、大國魂神社の西に位置する曹洞宗のお寺で、平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊の居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとのこと。後に足利尊氏が臨済宗の禅寺として再興し、高安寺となったそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

竹御所墓

鎌倉の妙本寺境内にある竹御所(名は、鞠子あるいは媄子)の墓。竹御所は源頼家の娘で一幡の同母妹。公暁の異母妹と考えられていて、33歳で亡くなりましたが、源頼朝の最後の直系子孫だったそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

佐助稲荷

源頼朝に挙兵を促し、勝利へ導いたとされる神霊を祀った神社。源頼朝(右兵衛権佐)を助けたということから、佐助稲荷と呼ばれていて、また、源頼朝を出世させたことから、出世稲荷とも呼ばれています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

由比ガ浜

鎌倉市の相模湾に面した海岸の名称で、海水浴場として有名。静御前の産んだ男児が頼朝の命により遺棄された浜と伝えられ、また、和田義盛もここで戦死したと伝えられるなど、歴史の舞台ともなった浜です。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

磨墨像

磨墨は佐々木高綱の乗る池月と宇治川の先陣争いをしたことで知られている梶原景季の愛馬。この名馬・磨墨は馬込村の産と伝わっていて、東京都大田区南馬込の万福寺の山門脇に像が建てられています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

磨墨塚

東京都大田区南馬込にある梶原景季の愛馬の墓とされている塚。名馬として知られた磨墨に乗った景季は、寿永3年(1184年)の宇治川の戦いで、やはり名馬の誉れ高い池月に乗る佐々木高綱と先陣を争いました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大森貝塚遺跡庭園

東京都品川区にある大森貝塚を整備した庭園。モース博士による発掘は明治10年(1877年)9月から12月に行われ、この発掘は日本初の学術的発掘であり、このことから大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

モース像

エドワード・S・モースは、米国の動物学者。標本採集に来日し、東京大学の教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力しました。また、モースは大森貝塚を発見し、日本の人類学、考古学の基礎をつくりました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大森貝塚

東京都品川区から大田区にまたがる縄文時代後期 - 末期の貝塚。明治10年(1877年)6月17日に横浜に上陸した米国人の動物学者モースが、6月19日に横浜から新橋へ向かう途中、列車の窓から発見した貝塚です。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

たつ道

たつ道は、横浜市泉区の西側を南北に通っている道で、現在の環状4号線。瀬谷から俣野方面への最短の直線道路で、新田義貞が鎌倉攻めの際に、この道を通って藤沢方面に南下していったとも云われている道です。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

佃島渡船場跡

隅田川に架かる佃大橋の東袂近く、東京都中央区佃1丁目に碑があります。徳川家康が、摂津国佃村の漁民を招いて住まわせたところが佃島で、この島と対岸の船松町との間に、正保2年(1645年)に通ったのが佃の渡しです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

佃島渡船場跡

東京都中央区湊3丁目、隅田川に架かる佃大橋の西の袂にある佃島渡船場跡の碑。「佃の渡し」と呼ばれたこの渡船は、佃島(現在の佃一丁目1~10番)が築かれた江戸時代から昭和期まで約320年間続いた渡船だったそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

青山学院記念の地

青山学院は、米国の宣教師により創立された3つの学校を源流としていますが、その源流の一つである、「女子小学校」が「救世学校」を経て、明治10年に築地に移転してきて「海岸女学校」と改称し、青山学院の基礎となりました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

女子聖学院発祥の地

女子聖学院は、現在は東京都北区中里にある私立の女子中学校・高等学校ですが、明治38年(1905年)に、米国人女性宣教師、バーサ・F・クローソンにより、女子聖学院神学部として東京築地で設立されたのがその始まりです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

明治学院発祥の地

「明治学院は明治10年(1877年) ここ築地17番地に開設された東京一致神学校を基とする」と碑文に記されています。 東京一致神学校は明治20年に、ヘボン塾の後身である一致英和学校等と合併して明治学院となりました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

立教学院発祥の地

立教学院は明治7年(1874年)に築地の外国人居留地に私塾「立教学校」が開かれたのが始まり。その後幾度か名称を変え、 明治40年(1907年)には「立教大学」を開設し、大正7年(1918年)に豊島区池袋に移転しました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

女子学院発祥の地

女子学院は明治3年 (1870年)に築地居留地に開設された「A六番女学校」がその発祥で、 明治23(1890年)には他の女学校と合併して、現在の校舎のある千代田区一番町に移転し、 校名も「女子学院」となったとのことです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

浅野内匠頭屋敷跡

聖路加国際病院と河岸地を含む一帯は赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、浅野内匠頭長矩もこの屋敷で生まれたとのこと。吉良邸討ち入り後の47士は、この上屋敷跡の前を通って泉岳寺まで引き揚げたそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

シーボルト像

江戸蘭学発祥の地である東京築地のあかつき公園にあるシーボルトの像。シーボルトは、文政9年(1826年)3月4日からの約1か月間、江戸で蘭学者を直接指導して、江戸蘭学発展のために大きく貢献しました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

慶応義塾発祥の地

福沢諭吉は、中津藩の命により江戸築地(鉄砲洲)に蘭学塾を開きましたが、外遊によって西洋文明を摂取した結果、蘭学より英学の振興が必要と考え、慶応4年(1868年)に「慶応義塾」と称する私塾をこの地に開設しました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

蘭学の泉はここに

東京都中央区明石町にある解体新書翻訳の記念碑。この地は豊前中津藩の中屋敷跡で、ここで、前野良沢、杉田玄白たちが4年かけてオランダの医学書を翻訳し、安永3年(1774年)「解体新書」が完成したとのことです。        >  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

朧の清水

  京都大原の寂光院に通ずる近道の右側、灌木の下にある小さな池。 建礼門院が遥々寂光院へお越しの道すがら、この清水の辺りで日が暮れ、 自身のお姿が月光によってこの水溜りにおぼろに写ったと伝わっています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大原西陵

  京都大原の寂光院隣接地にある、宮内庁管轄の建礼門院徳子の墓。 建礼門院徳子は平家の滅亡後、大原の里でその生涯を終えましたが、 没年については諸説あり、はっきりしていないそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

御庵室跡

  京都大原の寂光院境内にある建礼門院が隠棲していたと伝わる庵の跡。 平家の滅亡後、洛北の地大原で、建礼門院徳子が夫高倉天皇とわが子 安徳天皇、および平家一門の菩提を弔う余生を送ったとされるところです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

千年姫小松

  京都大原の寂光院の本堂前の汀の池の傍にある姫小松の古木。この姫 小松は平家物語の大原御幸の中で、建礼門院徳子と後白河法皇が対面 する場面で登場する松だそうですが、現在は枯れて神木とされています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

寂光院

  京都の大原にある、天台宗のお寺で、聖徳太子の開基と伝わっています。 平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後に隠棲した所であり、平家物語』の 「大原御幸」の舞台ともなり、『平家物語』所縁の寺として知られています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

元和キリシタン殉教の地

  日本のキリシタン殉教史の3大殉教の一つ、京都の大殉教が行われた地。 元和5年(1619年)10月6日、キリシタン52名が9台の大八車に乗せられ、 市中引き回しの上、ここの河原で、火あぶりの刑に処せられたそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

数馬茶屋

  三重県伊賀市の「鍵屋の辻」の直ぐ傍にある茶屋。寛永11年11月7日 (1634年12月26日)、渡辺数馬、荒木又右衛門一行が仇討ち前に立 ち寄り、仇を待ち伏せていたとされる萬屋を再現した茶屋です。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

鍵屋の辻

  鍵屋の辻は伊勢街道と奈良街道の分岐点にあたる辻で、寛永11年11月 7日(1634年12月26日)に、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇 である河合又五郎を討った場所として知られています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

伊賀上野城

  関ヶ原の合戦後、豊臣方に備えるために藤堂高虎が伊賀の藩主となり、 それまでにあった城を実戦型に大幅に改修した城。現在の天守は復元 されたものですが、石垣と内堀は当時のままのものです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

遍照院

  京都府の宇治田原町にある元亀元年(1570年)開基の真言宗のお寺。 徳川家康の三大危機の一つに数えられている「神君伊賀越え」の際に、 遍照院で休憩し、新しい案内人に導かれて信楽・朝宮を目指したそうです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

信西入道塚

  京都府綴喜郡宇治田原町にある、この地で最期を迎えた信西入道の首塚。 信西入道(藤原通憲)は平治の乱の勃発直後、源氏の手から逃れるために ここまで逃げてきましたが、ついに見つかり、首をはねられたとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more