海軍省跡(築地)

明治維新の後、築地の大名屋敷や講武所跡は主に海軍用地として使用され、 明治5年(1872年)、尾張藩別邸跡には海軍省が創設されました。 現在、海軍発祥の地として「旗山」の碑が築地の水神社境内に建てられています。
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かちときのわたし

明治38年(1905年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として、 築地と対岸の月島の間を結ぶ渡し舟である「勝鬨の渡し」が設置されました。 後の昭和15年(1940年)6月14日に、この場所に勝鬨橋が架けられました。
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軍艦操練所跡

幕末に江戸幕府が海軍士官の養成のために築地に設置した教育機関。 安政4年(1857年)に、永井尚志以下の長崎海軍伝習所の学生の一部が 蒸気船「観光丸」で江戸に移動し、講武所内に軍艦教授所が開かれました。
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虎ノ門記念碑

東京都港区虎ノ門の虎ノ門交差点の北東角に「虎ノ門記念碑」があります。 「虎ノ門」とは江戸城の南端(現在の虎ノ門交差点附近)にあった門の名前で、明治6年(1873年)に門が撤去された後も、近隣地域の地名として使われてきました。
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義士足洗いの井戸

吉良邸に討ち入りし、本懐を遂げた赤穂義士たちが泉岳寺へ向かう途中、2名の義士が大目付仙石伯耆守邸に出向きました。その2名が座敷に上がる際に足を洗ったという井戸が虎ノ門の日本消防会館内に再現されています。
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杉田玄白墓

杉田玄白は、江戸時代の蘭学医、若狭国小浜藩医で私塾天真楼を主催。 前野良沢や中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」で死体の腑分けを実見し、「ターヘル・アナトミア」を和訳して安永3年(1774年)に「解体新書」として刊行しました。
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将軍梅

東京都港区の愛宕神社の境内にある「平九郎手折りの梅樹」と呼ばれる梅。 曲垣平九郎が愛宕山の麓から傾斜約37度、86段の石段を馬で駆け上り、 愛宕神社のこの梅の木の枝を手折り、将軍家光に献上したと伝わっています。
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出世の階段

愛宕山の麓から山上にある愛宕神社に上る傾斜約37度、86段の石段。 寛永11年1月28日(1634年2月25日)、曲垣平九郎が馬でこの石段を 駆け上がり、山上にある梅枝を取ってくることに成功したそうです。
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爆弾三勇士像

爆弾三勇士とは、第一次上海事変で敵陣を突破し自爆して突撃路を開き英雄となった、江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の一等兵のこと。 東京芝の青松寺の墓地の奥に、江下武二の像のみが残されています。
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孤忠留魂之碑

昭和20年(1945年)8月14日の深夜から15日にかけて、皇居(宮城)で 日本の降伏を阻止しようとして起きたクーデター未遂事件が宮城事件。 宮城事件の中心となった4名の陸軍将校の碑が青松寺境内にあります。
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斉藤実邸跡

斎藤実は現在の岩手県奥州市水沢区出身の海軍軍人で政治家。 第30代内閣総理大臣を務めた後、内大臣となりましたが、天皇をたぶらかす 重臣ブロックとみなされ、昭和11年(1936年)の226六事件で、自宅を襲撃されて射殺されました。
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高橋是清像

高橋是清は明治~昭和初期の官僚、政治家で、第20代内閣総理大臣。 総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高く、軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、昭和11年(1936年)の226事件において、自宅にいたところを暗殺されました。
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高橋是清翁記念公園

第20代日本国総理大臣・高橋是清の邸宅跡であり、昭和11年(1936年)の226事件において、 高橋是清が反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれて暗殺された現場です。 昭和16年(1941年)に高橋是清翁記念公園として開園されました。
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段葛

鎌倉の若宮大路の真ん中を通る一段高くなっている歩行者用の道。かつて は八幡宮から由比ヶ浜まで通っていた軍用道路だったそうですが、現在は 二の鳥居から三の鳥居までが残されて整備されています。
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大石段

鎌倉の鶴岡八幡宮本宮とその下にある舞殿を結ぶ61段ある石段。建保7年 (1219年)1月27日、雪の中で三代将軍源実朝が暗殺された現場です。傍 らに立っていた隠れ銀杏は、平成22年(2010年)に倒壊してしまいました。
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舞殿

鶴岡八幡宮の大石段の下にあるのが舞殿で、下拝殿とも呼ばれています。 その昔、源義経の愛妾静御前が義経を慕った舞を舞った舞台と云われていて、 毎年4月の鎌倉まつりでは「静の舞」がここで奉納されています。
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今宮

鶴岡八幡宮の北に鎮座する神社で、隠岐島へ配流された後鳥羽天皇の 御霊を宥めるために、宝治元年(1247年)に建立されたとのことです。 ご祭神は承久の乱で配流された、後鳥羽、土御門、順徳の3天皇です。
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北条時頼廟

鎌倉のあじさい寺として知られる明月院境内にある北条時頼の廟所。北条時頼は別邸に持仏堂を造営して最明寺と名付け、それが後に禅興寺と改名され、その禅興寺の塔頭の一つが明月院だったそうです。
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北条時頼墓

鎌倉の明月院境内にある北条時頼の墓と伝わる宝篋印塔。 北条時頼は鎌倉幕府第5代執権を務め、また8代執権北条時宗の父でありました。そして、 出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれていました。
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佛日庵

円覚寺の開基である北条時宗の廟所で、開基廟とも呼ばれています。 北条時宗は二度にわたる蒙古襲来という国難を退けましたが、その死後、 このお堂の下に遺体が安置され、ここを廟所としたと伝えられています。
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六地蔵

和田塚から鎌倉駅方面に向かう途中の「六地蔵」交差点にある六体のお地蔵さま。 その昔、罪人は問注所で判決を受け、裁許橋を渡ってこの付近にあった刑場で処刑されたそうですが、その霊を慰めるために祀られたそうです。
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主馬盛久頸座

主馬盛久は平家の武将でしたが壇ノ浦で平家が滅びた後、京で捕えられました。その後、鎌倉へ送られてきて、この地で処刑されそうになりましたが、その寸前に役人の刀が折れて許されたと伝わっています。
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極楽寺坂

極楽寺方面から由比ヶ浜に通じる切通しで鎌倉七口の一つ。鎌倉時代の後半に極楽寺の実質的な開祖である真言律宗の僧・忍性が最初に切り開いたとのこと。新田義貞の鎌倉攻めの際には主戦場の一つとなりました。
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上杉憲方墓

上杉憲方は南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。関東管領だった人物で、応永元年(1394年)10月24日に60歳で死去。極楽寺駅近くに上杉憲方夫妻の墓と伝わる七層塔・五層塔があります。
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十一人塚

稲村ケ崎駅近くにある新田義貞による鎌倉攻めの時の戦死者を葬った塚。 ここに葬られたのは新田方武将である大館宗氏以下11人とのことですが、 実際に11人が討ち死にをしたのは由比ヶ浜と云われているそうです。
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満福寺

鎌倉の腰越にある寺で、源義経が腰越状を書いた寺として知られています。 元暦2年(1185年)5月24日、兄頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されな かった義経は、切々と心情を綴った手紙をこの寺で書いたと伝わっています。
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龍口寺

神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山。文永8年(1271年)に日蓮が処刑されそうになりましたが、危うく難を逃れることが出来たと伝わる処に、後に弟子の日法が自作の日蓮像と首敷皮を置いたのが始まりとのことです。
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埋木舎

彦根城佐和口御門近くにある質素な屋敷で、 井伊家の14男として生まれた 井伊直弼が彦根藩主となるまでの不遇の15年を過ごした屋敷として有名。 自らを花の咲かない埋木と同じとして、居宅を「埋木舎」と名づけたそうです。
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遠城謙道師之碑

遠城謙道は桜田門外の変での大老井伊直弼公の横死後に仏門に入り、 江戸における井伊家の菩提寺である豪徳寺に移り住みました。 そこで、終生井伊直弼の墓守をして、掃墓、読経で霊を慰めること実に37年に及んだとのことです。
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井伊直弼像(彦根)

井伊直弼は近江彦根藩の第15代藩主。幕末に江戸幕府の大老を務め、 勅許を得ず日米修好通商条約に調印し日本の開国近代化を断行しました。 強権をもって反対勢力を粛清したためにその反動を受け、桜田門外で暗殺されてしまいました。
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宗安寺

彦根城から程近く、夢京橋キャッスルロードに面してある浄土宗のお寺。 初代藩主井伊直政が上野国から移したお寺で、城下町のほぼ中心に位置し、 朝鮮通信使の宿等になるなどの重要な役割を果たしていたそうです。
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彦根城

江戸時代初期に井伊直勝が築城し、幕末まで井伊家14代の居城だった城。 井伊家からは5代6度にわたり大老が輩出され、井伊直弼もその一人でした。 天守閣は現存12天守の一つで、国宝に指定されています。
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井伊大老歌碑

彦根城の佐和口多聞櫓のすぐ近くにある、井伊大老(直弼)の歌碑。 「 あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな 」直弼は和歌においても秀でており、自作の和歌集を編纂したほどだそうです。
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長浜城

天正元年(1573年)、浅井氏攻めの功績で羽柴秀吉が浅井氏の旧領であったこの地を信長から拝領して築城した城。この城は秀吉の最初の居城で、秀吉はそれまでの今浜という地名を長浜と改名し、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所です。
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小谷城跡

小谷城は長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)にあった戦国時代の城。 戦国大名浅井氏3代の居城であり、堅固な山城として知られていました。しかし、織田信長に攻められて、天正元年(1573年)9月1日についに落城し、浅井氏は滅亡しました。
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桃配山

関ヶ原の戦いの際、東軍の総大将徳川家康が最初に陣を置いた場所。 また、桃配山は672年に起きた壬申の乱のおり、大海人皇子(後の天武天皇)が 出陣して桃を全兵士に配り、戦いに快勝した所と伝えられています。
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東首塚

JR関ケ原駅からすぐ近くのところにあるのが関ケ原合戦の東首塚。 家康の命により首実検後の首を竹中重門が祀ったとされるところです。 関ケ原合戦の戦死者は、両軍合わせて1万~4万にも上るそうです。
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松平忠吉・井伊直政陣跡

慶長15年(1600年)9月15日の関ケ原の合戦において、家康の4男である松平忠吉と後に彦根藩主となる井伊直政が約6000の兵を率いて陣を構えた場所。 午前8時頃、この両名は先鋒の福島正則より先に抜け駆けをして攻撃を開始し、関ヶ原合戦の戦端が開かれました。
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首洗いの古井戸

討ち取った首級を洗ったとされる古井戸で、関ケ原の東首塚のすぐ脇にあります。 家康による首実検に先立ち、合戦で討ち取られた西軍将士の首級は、 この井戸水を使って血や土などが洗い落とされたと伝わっています。
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不破の関守跡

天武天皇2年(673年)、天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を 守る為に不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所が設置されました。 当時は、この三関から東が東国または関東と呼ばれていたそうです。
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本田忠勝陣所跡

本多忠勝は徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられた武将。 関ケ原合戦においては「十九女池」の西側に陣を置き、軍監として参戦した ものの、島津隊に向かって進撃して西軍武将の切り崩しにも活躍したそうです。
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島津豊久碑

島津豊久は安土桃山時代の武将で、島津義弘に仕えた島津氏の家臣。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伯父の義弘と共に西軍として参陣。 島津軍が戦場を離脱する際に、豊久は義弘の身代わりとなって討死しました。
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関ケ原

伊吹山の南東麓に位置する交通の要衝で古代には不破関があった処。 慶長5年(1600年)9月15日の関ケ原の合戦では、東西両軍合わせて18万ともいわれる軍勢が集結し、天下分け目の激戦が繰り広げられました。
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